こうした中、天正13年11月13日(1586年1月2日)、徳川家の実質ナンバー2だった石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。

この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』) このような状況から、当時、家康は風前の灯だと見られていた。

ところが天正13年11月29日(1586年1月18日)に列島の中央部を「天正大地震」が襲う。マグニチュード(M)8クラス、最大震度6だったとされる。

この時の地震による被害としては、富山県高岡市の木舟城は陥没し、城主・前田秀継(利家の弟)が死亡。岐阜県白川村の帰雲城も城下もろとも埋没し、このため城主内ヶ島氏一族が滅亡。このように被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。このとき秀吉は近江国坂本城にいたが、あまりの恐ろしさにすぐに大坂城に逃げ帰ったという。

国際日本文化研究センターの磯田道史・准教授は「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で、この地震を「近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震」だったと指摘。この地震がなければ、家康は2カ月後に秀吉の大軍から総攻撃を受けるはずだったとしている。

天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で局地戦では勝った家康だが、その後の秀吉は秀吉包囲網を瓦解させ、紀州や四国など版図を飛躍的に拡大し彼我の軍事力には大きな差がついていた。

戦争に突入すればその後の後北条氏のように、家康には滅亡の可能性すらあっただろう。ところが震災で、秀吉の対家康前線基地の大垣城が全壊焼失、同盟軍の織田信雄の長島城も倒壊したという。

秀吉軍を展開させるはずの美濃・尾張・伊勢地方の被害が大きく、戦争準備どころではなくなっていた。

一方の家康側は、この地震により岡崎城が被災したが、領国内は震度4以下だったという。もっとも天正大地震以前に大雨や小牧・長久手の戦い等への領民動員で徳川氏の領国は荒廃しており、家康にしても豊臣政権との戦いどころではなかった。

秀吉は家康征伐を中止して和解路線に転じ、1年近くにわたる交渉を経て、天正14年(1586年)10月27日、家康は大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明。豊臣政権ナンバー2の座を確保し将来に備えることとなる。

各大名の動向

秀吉と同盟池田恒興(美濃・森長可(美濃)・丹羽長重(越前)・木曾義昌(信濃)・前田利家(加賀)・佐竹義重(常陸)・宇都宮国綱(下野)・毛利輝元(中国)

信雄・家康と同盟根来衆(紀伊)・雑賀衆(紀伊)・粉河寺衆(紀伊)・佐々成政(越中)・長宗我部元親(四国)・北条氏直(関東)

迂回作戦

通説である参謀本部や花見は迂回作戦の発起を池田恒興の献策としているが、異なる意見も出ている。岩澤は、秀吉が丹羽長秀に宛てた4月8日付書状を吟味したうえで、三河進攻作戦は池田恒興の強弁な献策ではなく、秀吉が構想していた作戦を恒興が意をくんで進言したと述べている。

谷口はこれを進め、迂回作戦の主導権は恒興ではなく秀吉にあったとしたうえで、九鬼水軍もくわえた水陸両用作戦を計画していたとする。

政治的意義

参謀本部や花見は、1584年に結ばれた羽柴秀吉と徳川家康の講和を形式的なものだったとみなし、1586年の家康上洛によりやっと服従したとみている。ただ、秀吉が脇坂安治に宛てた書状には、秀吉は徳川方から織田信雄(信長の次男)の娘、家康の長男と弟らを人質に出す和睦案が出されたが、一度拒絶したと記述されている。

申し出このうえで、秀吉は信雄の領地を奪って勢いを増し、信雄は家康という外援者により余威を存したのみ、そして家康は有形に得るところはなかったが無形の声望によってはかりしれない利益を得、後年の玉成を予約したと述べている。

これに対し、跡部は1584年の講和で家康が秀吉に人質を差し出したことをもって服従の姿勢を見せたとし、1586年の上洛は服従の最低条件が引き上げられたからだとしている。

そして、秀吉が家康にさえぎられて「軍事的征服路線から伝統的国制活用路線への転換」を余儀なくされたという説を否定している。

さらに、近年では片山正彦が、秀吉が家康を軍事的に屈服させきれなかったために、1586年の上洛後も秀吉と家康の間には主従関係が形式的な形でしか成立しなかったとしている。

このため、家康は北条氏との同盟関係を引き続き存続させて秀吉と北条氏の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。

その結果、秀吉は西国平定を優先して東国に対する軍事的な平定を先送りする方針を採り、東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得なくなった。

家康が秀吉に完全に服従したのは1589年暮れに秀吉が北条氏討伐を宣言して家康がこれに応じ、更に翌1590年に入って家康が三男・長丸(後の徳川秀忠)を実質上の人質として上洛させ、北条氏討伐の先鋒を務めた時であるとしている(小田原征伐)。

徳川家での顕彰

関ヶ原本戦において徳川氏の主力は合戦に参加することができなかった。このため、奇襲により羽柴軍別動隊を壊滅に追いこんだ小牧・長久手の戦いは徳川家で顕彰の対象となった。尾張藩においては、家康九男の藩主義直は長久手古戦場にみずから調査に行くほどの興味を示した。また、尾張藩士の調査によってつぎつぎと石碑が建てられ、藩士による合戦記も編纂されている。

紀伊藩では、家康十男の藩主頼宣は小牧・長久手の戦いにまつわる合戦記を収集し、宇佐美定祐などの軍学者に命じて屏風や配陣図を描かせたり当時をよく知る者に合戦記を書かせたりしている。

日本外史

頼山陽の『日本外史』に、「公 (神君家康) の天下を取る、大坂に在らずして関ヶ原にあり、関ヶ原に在らずして、小牧にあり」と、「小牧・長久手の戦い」こそが、徳川家康天下人へ押し上げた原動力になったことを述べている。