秀吉からみれば、山崎の戦いは亡き主君信長の弔い合戦であった。

この合戦に先だって、秀吉は積極的に情報戦を繰り広げ、多数派工作と大義名分の獲得に成功した。

そして、亡君の弔い合戦をほぼ独力で成し遂げ、あるいは終始これを主導したという実績は、戦後の織田家中にあって大きな意味をもっていた。

秀吉の政治的地位の向上は、もはや自然の成り行きであり、その戦勝の成果は6月27日に尾張清洲城(愛知県清須市)で開催された清洲会議でも発揮され、宿老柴田勝家の発言力を上まわって会議を席巻した。

天正10年6月の、この迅速な行軍とそれにつづく山崎での勝利は、「秀吉の天下」が現実性を帯びることとなる契機となったのである。

 

姫路城に帰還した秀吉は、正勝に命じて、すべての金銀米穀を家臣それぞれの知行に応じて分配させた上で、山崎の合戦に臨んだ。合戦において正勝は秀吉本隊の一員として戦い、稲田植元と共に戦功を上げた。

戦後、正勝と黒田孝高は毛利氏との取次役も務めた。本能寺の変の直後に締結された毛利氏と織田氏との和睦に5カ国割譲という条件が含まれていたため、秀吉と毛利氏との関係の再構築は難航した。

両名は安国寺恵瓊、林就長らと折衝を重ねて、(織田家の内紛における中断期間を含めて)約3年かけて境を確定させたが、この間、正勝は三度中国に下向して、この大任を全うした。

 

9「秀吉の宿老に蜂須賀氏

清洲会議の後、織田家宿老・柴田勝家との争いが勃発した。天正11年(1583年)3月、勝家出陣の知らせによって伊勢国の滝川一益の攻撃から長浜城に戻った秀吉の軍、13隊中の9番隊が蜂須賀隊であったが、正勝本人は前述の毛利氏との折衝があって部署を離れることが多く、与力・赤松広秀に隊を任せていた。4月の賤ヶ岳の戦いの当日は正勝も秀吉本陣に控え、直接活躍する場面はなかったが、追撃で北陸に進んで尾山城の城兵を説得して降伏させた。

その後、長島城で籠城を続けていた一益のもとに派遣され、名代として彼の投降を受け入れて、滝川領の織田信雄への受け渡しを統括した。

また秀吉が本拠を大阪に定めて、同年9月に大坂城の築城を始めるとその普請にも加わった。

天正12年(1584年)、前年より病であった杉原家次はこの年の秋に死去するため、正勝が家中における筆頭格の老臣となった。

正勝は大坂城のすぐ側である楼岸に新しい邸宅を与えられ、側近として毎日登城したので参勤料として丹波河内の内に5千石の領地をあてがわれた。

他方で大坂常勤となる前から所領の龍野の経営は家政が取り仕切っており、前年夏以前にはすでに家督を譲っていて、蜂須賀家当主は隠退した。

同年の徳川家康・織田信雄との小牧・長久手の戦の際には、正勝・家政親子は大坂城留守居となった。

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、天正12年(1584年)3月から11月にかけて、羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄徳川家康陣営の間で行われた戦い。

尾張北部の小牧城犬山城楽田城を中心に、尾張南部、美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津の各地で合戦が行なわれた。

また、この合戦に連動した戦いが北陸、四国、関東でも起きており、全国規模の戦役であった。名称に関しては、江戸時代の合戦記では「小牧」や「長久手」を冠したものが多く、明治時代の参謀本部は「小牧役」と称している。ほかに「小牧・長久手の役」、「天正十二年の東海戦役」という名も提唱されている。

天正10年(1582年)3月、織田信長徳川家康は甲斐国の武田勝頼を滅ぼし(甲州征伐)上方に凱旋するが、同年6月には信長が家臣明智光秀によって討たれる(本能寺の変)。

本能寺の変後には織田家臣の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が光秀を討ち清洲会議において台頭し、有力家臣の柴田勝家とは敵対的関係となった。また三河の徳川家康は本能寺後、織田政権の承認のもと、武田遺領の甲斐・信濃を確保し、五カ国を領有した(天正壬午の乱)。

天正11年(1583年)4月、秀吉は近江賤ヶ岳の戦いにおいて織田信長の次男の信雄を加えて、信長の三男・信孝を擁する柴田勝家に勝利した。

賤ヶ岳の戦いの後、柴田勝家の遺領の越前は丹羽長秀に与えられ、摂津・大坂の池田恒興は美濃を与えられ、大坂の地は秀吉が接収し、同年暮れ新築した大坂城に信雄を含む諸将を招いている。

天正11年(1583年)に信雄は秀吉によって安土城を退去させられ、これ以後信雄と秀吉の関係は険悪化する。秀吉は信雄家臣の津川義冬岡田重孝浅井長時(田宮丸)の三家老を懐柔し傘下に組み込もうとするが、徳川家康と同盟を結んだ信雄は天正12年(1584年3月6日に親秀吉派の三家老を処刑した。これに激怒する秀吉は、信雄に対し出兵を決断した。

小牧の役に当たっては、紀州雑賀衆根来衆四国長宗我部元親北陸佐々成政関東北条氏政らが、信雄・家康らと結んで秀吉包囲網を形成し、秀吉陣営を圧迫した。

詳細は「沼尻の合戦」、「紀州征伐」、および「末森城の戦い」を参照

犬山城の占拠

天正12年(1584年)3月13日、家康が清洲城に到着したその日、織田氏譜代の家臣で織田軍に与すると見られていた池田恒興が突如、羽柴軍に寝返り犬山城を占拠した。家康はこれに対抗するため、すぐさま翌々日の15日には小牧山城に駆けつけた。

羽黒の戦い

3月15日、池田恒興と協同戦とする森長可兼山城を出て、16日羽黒(犬山市)に池田勢より突出したかたちで着陣した。

しかし、この動きはすぐに徳川軍に知られ、同日夜半、松平家忠酒井忠次ら5,000人の兵が羽黒へ向けてひそかに出陣する。翌3月17日早朝、酒井勢は森勢を奇襲。酒井勢の先鋒、奥平信昌勢1,000に対抗し、押し返していた森勢だったが、側面から入ってきた松平家忠の鉄砲隊の攻撃により後退し、さらに酒井勢2,000が左側より背後に回ろうとするのを見て敗走した。森勢の死者300余人という。