柴田勝家は、北陸戦線にあって上杉景勝の支配する越中魚津城富山県魚津市)を攻略中であり、6月3の午前6時頃魚津城を陥落させ、その直後、余勢を駆って越後へむかおうとしていた矢先に変報が届いた。

勝家は後事を前田利家佐々成政らに託し、直ちに魚津からに乗って越中富山を経て居城の越前北庄城福井県福井市)に帰り、光秀討伐の準備を開始した。光秀征討の先鋒として養子であった甥の柴田勝豊や従兄弟の柴田勝政を出陣させ、6月18日には近江長浜(滋賀県長浜市)まで進出させたが、その時すでに光秀は秀吉によって討滅させられた後であった。

徳川家康は、甲州征伐の際に駿河を拝領した礼を述べるため武田旧臣の穴山信君(梅雪)を伴って5月29日に安土城に上って信長に面会し、信長の勧めにより京都や和泉を遊覧中であった。

堺では代官松井友閑や豪商達の饗応を受けていたが、6月2日の午前のうちに本能寺の変報を聞くと、上洛と称してすぐさま堺を出奔し、その日は近江信楽(滋賀県甲賀市)に宿泊した(家康と別行動を取った穴山梅雪は山城で土民に殺された)。3日朝、伊賀越えの道より伊賀に入り、領国三河への最短距離となる間道を抜けて伊勢加太三重県亀山市)を通過して伊勢の白子(三重県鈴鹿市)から船に乗り、6月4日には三河の大浜(愛知県碧南市)に到着して本拠の岡崎城(愛知県岡崎市)にたどりついた。

家康もまた光秀攻めをめざして熱田神宮名古屋市熱田区)まで進んだが間に合わず、一転して甲斐信濃攻めに着手し、短期間で領国を拡大させた(天正壬午の乱)。

滝川一益上野厩橋城群馬県前橋市)を本拠として北条氏と対峙しながら東国の新領土の経営に奮闘しており、変の報せが到着したのも大幅に遅れた。

また、河尻秀隆は甲斐に、森長可は信濃にあって、やはり新しく織田領となった地域の経営に努めていた。

織田信雄(信長の次男)は、本領の伊勢松ヶ島城(三重県松阪市)にいた。しかし、その兵の大部分は信孝の四国征討軍に従軍していたので、信雄の周囲には僅かな兵しかなく、伊勢より動くことはできなかった。

以上のように、本能寺の変の起こった当時、信長軍団の師団長ともいうべき諸将は光秀を除いて殆どが遠方に出払い、あるいは、戦争準備の最中であり、同盟者であった家康も僅かな供回りを連れての上方遊覧の途上にあって、畿内中心部は一種の戦力空白に近い状況であった。加えて、光秀の組下として行動をともにすることの多かった丹後細川藤孝忠興父子や大和の筒井順慶、摂津の池田恒興中川清秀高山右近らは国元で中国攻めの軍を準備中であった。

本能寺の変報が各地に伝えられると共に、光秀に与同する者も現れたが、日和見的な態度をとる者も多かった。

こうした情勢は、しばしば織田方諸将の行動を牽制させることともなっていた。

秀吉と高松城陥落

羽柴秀吉が、「信長斃れる」の変報を聞いたのは6月3日夜から4日未明にかけてのことであった。

太閤記』では、光秀が毛利氏に向けて送った密使を捕縛したことを説明している。

常山紀談』では、秀吉が所々に忍びを配置しており、備中庭瀬(岡山県岡山市北区庭瀬)で怪しい飛脚を生け捕りにしたところ「信長を打ち取らば、秀吉必ず敗北すべし。秀吉を追い撃たれよ」と毛利側へ送る密書を持っていたとしている。

また、京の動向を知らせるよう依頼していた信長の側近で茶人の長谷川宗仁の使者から知りえたともいわれている。なお、光秀の密使としては明智氏家臣の藤田伝八郎の名が伝わっており、岡山市北区立田には「藤田伝八郎の塚」が現在も残っている。

秀吉は変報が伝わると情報が漏洩しないよう備前・備中への道を完全に遮断し、自陣に対しても緘口令を敷いて毛利側に信長の死を秘して講和を結び、一刻も早く上洛しようとした。

また、変報が伝わった際、黒田孝高は傍らで主君信長の仇を討つよう進言したという逸話がある。

秀吉は情報を遮断した状況下で直ちに6月3日の夜のうちに毛利側から外交僧安国寺恵瓊を自陣に招き、黒田孝高と交渉させた。毛利側も、清水宗治の救援が困難だとの結論に達しつつあり秀吉との和睦に傾いていており[24]、変報を知ったのは秀吉が撤退した翌日だった。

この、本能寺の変を知りえるまでの情報入手における微かな時間差がその後の両者の命運を大きく分けたことになる。

3日深夜から4日にかけての会談で、当初要求していた備中・備後美作伯耆出雲の5か国割譲に代えて備後・出雲を除く備中・美作・伯耆の3か国の割譲と宗治の切腹が和睦条件として提示された。秀吉側は毛利氏に宛てて内藤広俊を講和の使者に立てている。忠義を尽くした宗治の切腹という条件について毛利家は難色を示したが、恵瓊は、高松城の城兵の助命を条件に宗治に開城を説き、ついに宗治も決断した。

秀吉は宗治に酒肴を贈った。小舟で高松城を漕ぎ出した宗治は、水上で曲舞を舞い納めた後自刃した。

「浮世をば今こそ渡れもののふの名を高松の苔に残して」が辞世であったといわれる。秀吉は宗治の切腹を見届け、「古今武士の明鑑」と賞したという。宗治とその兄僧月清らの自刃は6月4日の午前10時頃と推定される。

この後、秀吉は高松城に北政所(ねね)の叔父にあたる腹心の杉原家次を置いた後、兵を方へ引き返した。

毛利方が本能寺の変報を入手したのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊雑賀衆からの情報であったことが吉川広家の覚書(案文)から確認できる。

この時、吉川元春などから秀吉軍を追撃しようという声もあがったが、元春の弟・小早川隆景はこれを制し、誓紙を交換している上は和睦を遵守すべきと主張したため、交戦には至らなかった。

輝元もこれを了承し人質として秀吉側から毛利重政高政兄弟、毛利側から小早川秀包桂広繁が送られる(『日向記』)。また、これについては、毛利勢は備中松山城(岡山県高梁市)に本陣を置き、領国防衛を第一とする基本的な構えで秀吉軍に対峙していることから、守備態勢を追撃態勢に切り換えることは事実上不可能であったとする見解もある。

事実、秀吉は万一毛利勢から追撃される場合を措定して備前に宇喜多秀家の軍を留め置いている。

仮に宇喜多軍が突破されても、伯耆の南条元続が毛利領に侵攻して毛利軍の背後を突く手筈となっていたことも考えられる。