4月3日から6日にかけて秀吉軍は支城の1つである南西の野口城を落城させるが、同じ頃に毛利氏の3万の大軍が尼子勝久の上月城を包囲する(上月城の戦い)。秀吉は東播磨での展開を一次中断して4月下旬に上月城東側の高倉山に布陣したが、兵力が少なく毛利軍に手出し出来ず膠着状態になった。

5月に信長は嫡男の織田信忠を大将とした2万の軍勢で上月城の救援に向かわせるが、救援軍は三木城の支城包囲が主目的であり、信忠は弟の信雄信孝らと共に三木城西部の神吉城志方城・高砂城を包囲、丹羽長秀滝川一益明智光秀ら残りの軍勢は秀吉の援護に向かったが、状況打破に繋がらなかった。

膠着状態が続いたため、高倉山の織田軍は三木城攻略を優先して書写山まで撤退、7月には毛利氏が上月城を攻略する。

毛利氏の目的が上月城の奪還のみであったためか、補給路が伸びきってしまうのを避けるためか、毛利氏はそれ以上東進しなかった。これを受けて織田軍は東播磨での活動を再開、上月城救援のために派遣した軍勢と信忠の軍勢で6月から10月にかけて神吉城・志方城・魚住城・高砂城を攻略(救援軍は支城陥落後に引き上げる)、三木城に対峙する平井山(三木城の北東約2㎞)本陣と包囲のための付城を築く。これによって別所氏は補給が困難になる。

兵糧の輸送と阻止

ところが10月、織田軍の武将荒木村重が離反し(有岡城の戦い)、毛利氏について有岡城に立てこもった。村重の領国摂津は、三木城から六甲山地を挟んで南側に位置する。

これによって、摂津の港で兵糧を陸揚げ花隈城から丹生山を越え三木城へという新たな補給路ができる。

秀吉の部将黒田孝高が説得に向かったが、村重に捕らえられ有岡城に幽閉された。孝高の主君小寺政職が村重に呼応したために取った処置とされる。

翌年の天正7年(1579年2月6日、一応の補給路は確保されているものの、このままでは兵糧不足に陥ることは明らかで、別所氏はこの局面を打開するために秀吉の本陣平井山へ約2500人を出兵する(平井山合戦)。

しかし人数、地形共に別所氏に不利な状況であり、別所長治の弟治定が討死するなど別所側の敗戦となる。

5月、秀吉は摂津からの兵糧輸送の中継地点、丹生山明要寺と淡河城を攻略、これによって再び補給が困難となる。

6月、反織田の共同戦線の一角、波多野秀治八上城が明智光秀に落とされ、秀治は捕らえられて処刑された。13日、秀吉の部将竹中重治(半兵衛)が平井山の陣中で没した。

9月10日、毛利氏と別所氏の双方が出兵し、兵糧を三木城に運び込むという作戦が実行される(平田合戦・大村合戦)。

毛利氏の補給部隊が秀吉の部将谷衛好が守る三木城西側の平田陣地を攻略して衛好を討ち取り、別所氏側は吉親率いる3000の兵が三木城外の大村付近に出兵する。混戦になるが、別所側は淡河定範など多くの武将が討ち取られ敗戦となり、兵糧の搬入も失敗に終わってしまう。

10月、毛利氏側であった宇喜多直家が離反、毛利氏の本国と播磨・摂津の間が分断され、毛利氏による支援が不可能な状況になる。

秀吉は降伏勧告を行うが別所氏は拒否する。11月、共同戦線を張っていた村重の有岡城が織田軍に攻略される。村重は落城前の9月2日に有岡城から脱出、尼崎城・花隈城を転々として抵抗を続けたが、単独で織田軍に対抗出来ず没落への道を辿っていった。

天正8年(1580年)1月、三木城内の食料は既に底をつき「三木の干殺し」状態が続いていた。一方の織田軍は三木城内の支城を攻撃、6日に長治の弟友之が守る宮ノ上砦を、11日に吉親が守る鷹尾山城を攻略、残るは本城のみとなる。14日、重棟の城中への勧告により城主一族の切腹で城兵の命を助けるという条件がでる。

17日に長治一族が切腹(吉親は抗戦しようとして城兵に殺害)、1年10ヶ月に及ぶ篭城戦が終了するものの、このとき、条件にあった城兵の助命は行われず、羽柴方によって大量殺りくが行なわれた可能性が高い。

有岡城に幽閉されていた黒田孝高は家臣に救出され秀吉と再会、一方の小寺政職は御着城を織田軍に落とされ、毛利氏の元へ落ち延びた。この後孝高は居城姫路城を秀吉に提供、姫路城は秀吉の居城となった。  

 

天正8年(1580年)4月24日、広瀬城(長水城)を正勝と家政で攻略して城主・宇野重清を討ち取った(または捕らえた)。

この功により、家政には月毛の名馬を、正勝には長水城が与えられて、初めて城主となった。その後、播磨を平定すると、秀吉は黒田官兵衛(孝高)の助言に従って姫路城を本拠として改修し、正勝にも播磨龍野城5万3,000石を与えた。

同年、秀吉は、正勝の娘(後の宝珠院)と黒田孝高の長男・松千代(松寿)丸(後の黒田長政)との婚約を成立させ、左右の重臣の結束を固めた。

天正9年(1581年)、因幡鳥取城攻め(鳥取の渇殺し)にも従軍し、城を包囲する寄せ手に入った。

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市(旧・因幡国邑美郡)に築かれた戦国時代から江戸時代日本の城である。国の史跡に指定され、別名は久松山城という。戦国時代から江戸末期にかけての城郭形態の変化を窺うことができることから「城郭の博物館」の異名を持つ。

織田信長中国攻めでは、家臣の羽柴秀吉兵糧攻めを用いて攻略した。開城後、入城した宮部継潤によって山上ノ丸の改修が行われ、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、麓の二の丸以下の曲輪が拡張された。現在は天守台、石垣、堀、井戸などが残っている。

戦国時代

山名氏の内紛と毛利氏の侵攻

戦国時代中頃の天文年間、因幡守護である山名誠通久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきたが、近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ永禄年間には鳥取城を拠点とした。