合流されたとはいえ、本願寺勢は退却せず、陣形を立て直しつつあった。信長はそこへ再度攻撃をかける事を決める。

家老たちは多勢に無勢であるとして止めたが、信長は「今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所の由(いま敵が間近にいるのは天の与えた好機である)」と言い放ち、陣形を2段に立て直して突撃。

本願寺勢を撃破し、更にこれを石山本願寺の木戸口まで追撃し、2700余りの敵を討ち取った。こうして織田軍の勝利で天王寺砦の戦いは終結した。

信長は大坂の10箇所に付城を作るよう命じ、佐久間信盛・信栄父子と松永久秀らを天王寺砦に入れると、6月5日に若江城に帰還した。

影響と戦略

この戦いで勝利した織田軍は、摂津方面での陸戦での優位を確立した。以後、本願寺軍は討って出ようとはせず、籠城戦に持ち込んだのである。

一時は第一次木津川口の戦い毛利水軍が織田水軍に勝利して戦況が逆転しかけたこともあったが、天王寺砦の戦いで損害を受けた本願寺軍は2度と陸戦に出ようとはせず、毛利水軍もやがて第二次木津川口の戦いで織田水軍に敗れて壊滅し、本願寺勢力の孤立化が決定的となることになる。また、この戦いでは、先述のように本願寺攻撃の主将格であった塙直政が戦死し、直政の一族郎党は信長の追及をうけて没落した。そして、佐久間信盛がその後任となって対本願寺戦を指揮し、畿内において織田家中最大規模の兵力を統率することになった。

しかし、その佐久間信盛も、天正8年(1580年)の本願寺の退去による石山合戦終結まではその地位にあったものの、対本願寺戦において非積極的であったと信長に折檻状を突きつけられ失脚した。

代わって信長の実質的本拠地たる畿内で大軍団を率いることになったのが、この戦いで信長が率先して救助した明智光秀であった。

秀吉勢の先鋒を務めて、「楼岸(ろうのきし)一番の槍」の手柄を挙げ、中村重友と共に一揆勢の首も多数上げて、秀吉より感状と100石の加増を与えられ、さらに信長からも褒美として定紋の軍衣を直に手渡されるという栄誉を受けた。

 

6「正勝の中国戦役

天正5年(1577年)から始まった中国攻めには、秀吉の譜代衆となった息子・家政と共に従軍した。天正7年(1579年)の播磨三木城攻め(三木の干殺し)では、別所長治小早川隆景の挟撃をうけた平田城で谷衛好が敗死すると、これの反撃となった大村合戦では小早川勢を撃退して200の首級を挙げて兵糧強奪も果たし、糧米輸送を阻止した。

三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日1578年5月5日)から天正8年1月17日1580年2月2日)にかけて行われた織田氏別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城兵庫県三木市)に篭城した。

この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。

(※以後の日付は特に断りのない限り、すべて旧暦で記す)

合戦までの経緯

播磨と周辺の情勢

室町時代の播磨は守護赤松氏の領国だったが、嘉吉の乱で没落、後に再興されるものの一族や家臣の台頭を許す。室町後期の戦国時代になると、これらの勢力は半独立状態となって数郡ごとを領し割拠した。別所氏もその1つで、赤松氏の一族であり、東播磨一帯に影響力を持っていた。

周辺国では西の大国毛利氏とその幕下の宇喜多直家畿内を制しつつある織田信長が勢力を広げており、播磨国内の諸勢力は毛利氏と織田氏の両方と友好関係を結んでいた。この2つの勢力も播磨を緩衝地帯として友好関係を保っていたが、信長に京都から追放された足利義昭石山本願寺顕如の要請により、毛利氏は反織田に踏み切る。

播磨国内では、天正5年(1577年)5月に中播磨の御着城小寺政職が毛利氏と争って旗幟を鮮明にするなど、多くの勢力が織田氏寄りとなる。

同年10月、羽柴秀吉が織田氏の指揮官として播磨入りし、宇喜多直家の支配下となっていた西播磨の上月城福原城などを攻略、上月城の守備に尼子勝久山中幸盛を入れ、一旦は播磨のほぼ全域が織田氏の勢力下に入る。

しかし、織田・別所間の関係は織田勢による 上月城の虐殺、同月に加古川城で行われた秀吉と別所吉親の会談(加古川評定)で生じた不和などをきっかけに悪化。翌天正6年(1578年)に秀吉は中国地方攻略のため再び播磨入りするが、同年2月、吉親の甥で別所氏当主別所長治が離反し毛利氏側につく。別所氏の影響下にあった東播磨の諸勢力がこれに同調、浄土真宗門徒を多く抱える中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏がこれを支援し、情勢が一変する。

長治は三木城に篭城して毛利氏の援軍を待つ方針を決定、三木合戦が開始される。

離反の理由

別所氏が離反した理由としてよく言われるのが、赤松氏の一族という別所氏の名門意識が評定での秀吉との対立を招いたというものである。

これ以外にも数多くの要因があり、織田軍による上月城の虐殺への義憤、かつては毛利氏とも友好関係であったこと、播磨国内に浄土真宗の門徒が多かったこと、信長による所領安堵の約束への不信感、別所吉親と別所重棟(重宗)兄弟の対立、姻戚関係にあった丹波波多野氏の織田氏からの離反、上月城での処置への不信感などが挙げられる。

三木合戦

別所氏の籠城

別所長治が籠城した三木城には、東播磨一帯から約7500人が集まった。この中には、別所氏に同調した国人衆の他に、その家族や浄土真宗の門徒なども含まれており、いわゆる諸篭り(もろごもり)だった。

このため多くの兵糧(食料)を必要とし、別所氏にとってはこれが重要な課題となる。合戦中、瀬戸内海の制海権を持つ毛利氏や英賀城三木通秋などによって兵糧の海上輸送が行われた。別所氏側では、海沿いにある高砂城魚住城などで兵糧を陸揚げ、主な支城と連携して加古川や山間の道を通って三木城に兵糧を運び込んだ。

これに対し、秀吉は支城攻略の方針を採る。天正6年3月29日に秀吉は三木城包囲を開始、4月1日に別所軍が近辺の細川庄(現在の三木市細川町)領主の下冷泉家当主冷泉為純為勝父子と別府城の別所重棟を攻撃した(為純父子は討死、重棟は撃退)。