道三死後は尾張国の岩倉城主・織田信賢に仕え、翌年、岩倉城で反乱があった際に鎮圧に貢献して賜衣を授けられた。

織田 信賢(おだ のぶかた)は、戦国時代武将。通称は兵衛、左兵衛。官位伊勢守尾張国岩倉城主。

略歴

尾張上四郡守護代「織田伊勢守家」(岩倉織田氏)の織田信安の嫡男として誕生。母は織田信定の娘・秋悦院か?。

父・信安が信賢の弟・信家を寵愛し跡継ぎに定めようとしたため、居城岩倉城から父と弟を追放し新城主となった。末森城主・織田信行美濃国斎藤義龍らと結んで、敵対関係にあった清洲三奉行の一家「織田弾正忠家」出身の織田信長に対抗するが、永禄元年(1558年)、浮野の戦いで信長に敗れ、翌永禄2年(1559年)、居城岩倉城も包囲される。

数ヶ月の篭城戦ののちに信賢は降伏し、追放処分となった。

その後の行方は不明だが、このときに自刃したもしくは旧臣の山内一豊土佐国に招かれ、200石を給したという説があり、山内家墓所の日輪山真如寺に信賢の墓がある

 

しかし信賢は織田信長犬山城主・織田信清の連合に攻められ、敗れて降伏。このため正勝は信清に一時的に仕えるが、信清も信長と不和となって永禄7年(1564年)に甲斐国へ亡命したので、信長に仕えるようになって、この頃、蜂須賀郷に戻った。

一説では、秀吉は織田氏に仕える以前に正勝に仕えていたとも云われ、秀吉による推薦があって(敵側だった)正勝は信長の家臣となったという話もある。

(『武功夜話』を信じるならば)秀吉の父・弥右衛門蜂須賀正利の配下であったことがあり、小和田哲男は秀吉はその縁で正勝と信長とを橋渡したのだろうと推測する。

なお、信長の側室生駒吉乃の父である生駒家宗とは同郷であり、『織田家雑録』では、秀吉が織田氏に仕えたのは正勝と縁のあった吉乃の推薦によるとしている。

他方で別書によれば、正利の室・安井御前は秀吉の義弟に当たる浅野長政とは母方の従兄弟になるので、その縁で秀吉の与力となった可能性もあるとされる。

 

4「矢矧川の野盗の逸話に子孫は苦しんだ」

講談や『太閤記』『絵本太閤記』『真書太閤記』では、蜂須賀小六は野盗の親分であったとされているが、「墨俣一夜城」のために集められた夜討強盗の野武士集団の番頭の1人というのは、寛永3年(1626年)以後に刊行された小瀬甫庵の『太閤記』が秀吉の生い立ちを面白くするために作った話であり、蜂須賀家の子孫は長くその負のイメージに苦しんできた。

盗賊(とうぞく)とは、法規から逸脱して強奪(掠奪)などを行う者たちの集団を指す。山中に拠点を置き通行人などを襲う盗賊を山賊(さんぞく)、海でを用い他の船や沿岸を襲撃する盗賊を海賊と呼ぶ。また、山賊を含め、山野で通行人などを襲う盗賊を、野盗(やとう)や追いはぎと呼ぶ。

ほとんどの盗賊は多勢を以って形成し、首領格を中心とした組織を構成している。構成員には、犯罪者貧困層反政府活動家などがいる。人里離れた山野に拠点を置くことが多いが、都市部では貧困層の生活する地域つまり貧民窟スラムファヴェーラ等)を拠点とする場合もある。

日本

日本においては古代より見られ、その存在は遠隔地交易の発達阻害要因でもあった。このため十分な力を持った領域支配者は治安維持と流通の安全のためしばしば盗賊の取締りを行なった。

室町時代成文法では山賊は重科、重犯と位置づけられ禁圧の対象だったが、『世鏡抄』で落ちぶれた武士が山賊になるのは「侍ノ習」と述べられるように、一般社会ではすべての山賊が重犯罪者とは必ずしも考えられてはいなかった。

山賊は一種の関所であり、それを黙認する地頭職や警察権をもつ氏族は、通過する商人から警固料を徴収した。

戦国時代、旅をすることが容易でなかった理由のひとつは、様々なところに山賊の類が出没したからである。

豊臣秀吉の「海賊停止令」によって、全国規模で山賊・海賊の設けた不法な関所の撤廃が推し進められた。

徳川家康鳶沢なる盗賊の頭目を捕え、助命を条件に彼らの情報網を使って、江戸市中における盗賊の取り締まりや治安維持にあたらせたという。

また江戸幕府は町奉行所とは別に火付盗賊改方を設置し、盗賊も含めて凶悪犯を取り締まる専任の部署を設けた。

長谷川宣以は、自身が若いころは放蕩無頼の生活を送っておりアウトロー的な人々との付き合いもそれなりにあったとされ、そうした人脈のおかげか、また彼らの気性や行動様式を知りつくしていたおかげか、多くの盗賊を捕える手柄をあげた。

 

羽柴秀吉との出会いについても、浪人時代の秀吉と矢矧川の橋(矢作橋)で出会ったという逸話が特に有名で、浮世絵などにも描かれるなど広く信じられてきたが、渡辺世祐が侯爵蜂須賀家の依頼により『蜂須賀小六正勝』を執筆した際に、室町期のどの紀行文を見ても矢矧川には橋がなかったこと、渡し船が用いられていたこと、この逸話が虚伝であることを指摘し、その後、矢矧川に橋が架かったのは江戸時代中期の元禄年間(1688年-1704年)であり、天正年間(1573年-1593年)には渡し船で渡河していたことが立証された。

桑田忠親は「矢作橋の上で、盗賊の頭領の蜂須賀小六と出会う話は『絵本太閤記』の作り話」とし、小和田はさらに具体的に(橋での出会いは)寛政9年(1797年)に刊行され始めた同作由来の話であるとして、その著者の「竹内確斎の創作」であると言っている。