行商で成功した庄五郎であったが、ある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。

この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ」と言われ、一念発起して商売をやめ、鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。

 その後、武士になりたいと思った庄五郎は美濃常在寺の日護房改め日運を頼み、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。庄五郎は、長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。

勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現し、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。頼芸が兄政頼(頼武)との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年(1527年)8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。

頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗った。

この頃、土岐頼純が反撃の機会を窺っていた(この頃、政頼は既に死去している可能性が高い)。

天文4年(1535年)には頼芸とともに頼純と激突し、朝倉氏、六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がった。

天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。

これらの所伝には、父新左衛門尉の経歴も入じっている可能性が高い。大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。

さらに、天文2年の文書に藤原(長井)規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている。

また公卿三条西実隆の日記にはこの年、道三の父が死去したとある。同年11月26日付の文書(岐阜県郡上市の長瀧寺蔵、岐阜市歴史博物館寄託)では、長井景弘との連署で主家を重んじる形式となっており、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものである。

また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄3年3月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっている。

しかし、この後天文3年9月付の文書(『華厳寺文書』「藤原規秀禁制」)には道三単独の署名が現れ、それ以降、景弘の名がどの文献にも検出されないことから、この頃までに景弘が引退または死亡したと推定される。

道三が景弘を殺害したのかもしれない。また道三は長井宗家の名跡を手に入れていたのかもしれない。いずれも確証はなない。

美濃国盗り

天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の二郎(頼次)を尾張へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。

こういった行いから落首が作成され、それは「主をきり 婿を殺すは身のおはり 昔はおさだ今は山城(主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう)」というものであった

しかし、織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純(これ以前にその父政頼は死去していたと推定される)と連携を結ぶと、両者は土岐氏の美濃復辟を名分として朝倉氏と織田氏の援助を得、美濃へ侵攻した。その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、頼純(あるいは政頼も生存し行動をともにしていたかもしれない)は革手城に復帰した。

天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い、ただし時期には異説あり)。

一方、頼純も同年11月に病死した。この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。

帰蝶を信長に嫁がせた後の正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が、多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちはあのうつけ(信長)の門前に馬をつなぐよう(家来)になる」と述べたと『信長公記』にある。

この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城長屋景興揖斐城揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城に留まっていた頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。

晩年・最期

天文23年(1554年)2月22日から3月10日の間に、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城隠居した。

しかし道三は義龍よりも、その弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。

国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず[注釈 13]、翌弘治2年(1556年)4月、17,500の兵を率いる義龍に対し、2,500の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わず戦死した。享年63。

信長への遺言と息子への最後の評価

戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を信長に渡した。道三は義龍を「無能」と評したが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。

道三の首は、義龍側に就いた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。なお、首を討たれた際、乱戦の中で井上道勝(長井道勝)により鼻も削がれたという。