道三死後の美濃

父斎藤道三を討ち果たしたその子斎藤義龍であったが、その後5年ほどで急死した。

家督は義龍の子斎藤龍興が継ぐが、尾張の織田信長の美濃侵攻により、没落して美濃を追われ、後に越前朝倉氏のもとに身を寄せて信長に反抗を続けるも刀根坂の戦いにおいて戦死したという。

織田家では美濃斎藤家跡取として濃姫の弟である斎藤利治美濃斎藤氏継承し、兄である斎藤利堯も重臣となった。俗説として義龍の実父は道三によって美濃を追われた前守護土岐頼芸とする説があるが、江戸時代に編纂された『美濃国諸家系譜』の記述が出典であるため不明。また、近年勝俣鎮夫によって唱えられた説では、道三は重臣との対立によって義龍を擁した重臣達によって当主の地位を追われたため、義龍とそれを支持する重臣達を排除するためにこの戦いを起こしたとされている。

以前は『信長公記』の記述により、道三が最初に本陣を置いたのは鷺山城と考えられていたが、現在は鶴山に置いたという説が有力とされる。

この合戦で明智氏は道三に与したため、義龍により居城の明智城を攻められ、辛うじて脱出した明智光秀は流浪の生活が始まったとする説がある。

道三は、元家臣の長井忠左衛門小牧道家(源太)林主水らの追跡をうけ、くみつかれて脛を斬りつけられ、鼻を削がれた。元家臣の小牧道家(源太)により、道三塚へ手厚く葬られた。

援軍に来た織田軍は間に合わず、斎藤利治(道三の末子)らの道三残存軍と合流し撤退を開始したが、斎藤軍の追撃を受けた。信長自ら殿軍をし最新の鉄砲を使い追撃を振り切り、その日のうちに撤退した。

長良川で対陣している最中に道三は、信長へ「美濃国譲り状」を記した。[3]

斎藤 道三利政(さいとう どうさん/としまさ)は、戦国時代武将美濃戦国大名道三流斎藤氏初代当主。

名としては、長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、書状などに現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。美濃の蝮(マムシ)という綽名でも知られる。

父は松波庄五郎または松波基宗(後述)、子に義龍孫四郎(龍元、龍重)、喜平次(龍之、龍定)、利堯(利堯、玄蕃助)、長龍(利興、利治)、日饒(妙覚寺19世住職)、日覚(常在寺6世住職)。

また、長井道利 は長井利隆(『美濃明細記』)の子で道三の弟(『武家事紀』) とも、または道三が若い頃の子であるともされる。娘に姉小路頼綱正室、帰蝶(濃姫織田信長正室)など。

北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、名もない境遇から僧侶、油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされる。権謀術数を用い、道三は美濃の戦国領主として天文23年(1554年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。

近年では『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉(別名:法蓮房・松波庄五郎・松波庄九郎・西村勘九郎正利)との父子2代にわたるものではないかという説も有力となっている。

史料に見る道三の来歴

下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、江戸寛永年間成立と見られる史書『美濃国諸旧記』などにより形成され、坂口安吾海音寺潮五郎司馬遼太郎らの歴史小説で有名になっていた。

しかし、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく人物像は転換した。編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。

この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。

斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。

新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。

新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。

義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。

道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていたいわゆる「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の親子二代にわたるものである可能性が高くなった。父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。

一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見えるが、真偽の程は不詳である。

前半生

以下は通説として、かつて知られていた一代記としての道三像で叙述する。

明応3年(1494年)に山城乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが、生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面武士を務め、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。

道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。

その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して松波庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。

油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、商人となり山崎屋を称した。大永年間に、庄五郎は油売りの行商として成功し評判になっていた。

『美濃国諸旧記』によれば、その商法は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。

油がこぼれたらお代は頂きません」といって油を注ぐ一種のパフォーマンスを見せるというもので、美濃で評判になっていた。