そして、天文17年(1548年)には犬山城主・織田信清(弟・信康の子)と楽田城主・織田寛貞が謀反を起こすが、これを鎮圧して従属させた。

同年、道三が大垣城の奪還のために攻めよせ、救援のため信秀が出陣し後ろ巻きするが、その留守中に、織田達勝の跡を継いだ織田信友が古渡城を攻めたことにより、帰って大和守家とも争うが、翌年には和解している。

大垣城はやがて道三側に取り戻された。

 

天文16年(1547年)の9月に信秀が松平広忠岡崎城を攻め落として広忠を降伏させた。

また、広忠の嫡男・竹千代(後の徳川家康)が織田家の人質になったのもこの時の出来事と考えられている。

また、これに対して、翌天文17年(1548年)には斎藤道三が松平広忠に働きかけて、斎藤氏・今川氏と結んだ広忠が挙兵(『武家聞伝記』)し、斎藤道三や今川義元が信秀に対抗するために積極的な工作をしていたと考えられている。

さらに、同年、第2次小豆坂の戦いで今川方の太原雪斎に敗北。

次第に今川・斎藤に押され、守護代大和守家とも紛議し苦しむようになった。そのため、この年斎藤氏と和睦して、条件として信長と濃姫との婚姻が決まり、翌天文18年(1549年)2月にこれを娶った。しかし、翌3月には、信秀の勢力を三河より駆逐せんとする今川が、織田方の西三河支配の牙城であった安祥城太原雪斎を将とする約1万の軍勢を送った。

城主であった庶子信広の奮戦により、一度はその攻撃を退けたものの、今川は同年9月に再び出兵。平手政秀が援軍として安祥城へ送られたが、11月に安祥城は陥落した。

この後、西三河南部における織田方の勢力は総崩れの様相を呈し、更に信広が今川氏に捕縛されたことで、人質としていた松平広忠の嫡男竹千代(後の徳川家康)との交換が行われ西三河での勢力を失った。

同年頃から病に冒され臥せるようになり、周囲や関係者にも病中と知られ11月には信長が「執達」し代行して熱田に制札を出している。

天文19年(1550年)8月今川の軍勢により、知多郡水野家が降伏して、その翌年12月には愛知郡鳴海城山口教継が今川方となり周囲に調略して、信秀側の勢力が削がれるという困難の続く中、天文21年(1552年)3月3日、末森城で死去した。

享年42。家督は嫡男の信長が継いだ。葬儀は萬松寺で行われ、僧侶300人を参集させた壮大なものだった。没年には、天文18年(1549年)説や、天文20年(1551年)説や、天文21年(1552年)3月9日説がある。

人物

智勇に優れた武将であり、守護代二家のうちの大和守家下の庶流という低い地位から尾張各地、そして一時は西三河まで支配し尾張国を代表する勢力となり、信長の飛躍の基盤を作った。

何度かの苦戦や困難にも負けず戦い抜き戦国大名化し、天文13年美濃攻めの大敗北直後にも堂々と勅使を迎えた。

苦戦や敗戦にめげない精神は、信長の第一次信長包囲網の元亀年間の最大の苦闘やその後の包囲網、苦戦に負けなかった強靭な人格に特に継承されている。

父・信定の築いた勝幡城を継承し、近辺の港と門前町の商業都市津島の権益を高め、後に同様の地の熱田を支配し、経済力を蓄えて、当時の経済流通拠点を支配下に組み込み、それによって商業の活性化を図るなどの先見性を持っていた。これは信長に継承されている。

那古野城の奪取にあたっては、信秀はあらかじめ若年の城主の今川氏豊に友好的に接近、連歌狂だった氏豊の歌仲間として親しくなり油断させ、那古野城に何日も泊まるようになる。

その後、宿泊時に仮病の重体で人を呼び寄せ、城の内外で戦いを起こし城下に放火し侵攻させていた軍勢を城内に入れ乗っ取るという奇策で攻略したと『名古屋合戦記』[29]に記され、そのまま史実ではなくても、那古野城が突然に信秀のものになったのは事実で、同様のことがあったと見られ、武将としての性格を示して有名である。前記したように同書には年数の合わない享禄5年(1532年)春のこととされている。

「大うつけ」呼ばれ、長老衆や周囲の悪評の高い信長に那古野城を譲り、その後も一貫して自らの後継者に据え続けており、親子の間には信頼関係があったと思われる。

居城を勝幡城、那古野城、古渡城、末盛城と、戦略に合わせ、次々と移転したが、他の戦国大名の武田氏朝倉氏後北条氏や戦国時代の毛利氏上杉謙信などは生涯居城を動かさず、信秀は特異であるがその勢力拡大への効果は大きい。この居城移転戦略も信長へと引き継がれた。

子福者であり、40代前半で死去するまでに正室と多くの側室との間に12人の息子と10人以上の娘をもうけた。

籠城せず必ず打って出る戦闘方法、多数の兄弟姉妹・娘息子を活かした縁組戦略などは、信長に全国に規模を広げて拡大継承された。その一方で、農村農民や農地政策の不徹底さも同様となった。

天文12年(1543年)、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上した朝廷重視の姿勢は信長にも受け継がれた。

現・京都市東山区の建仁寺の塔頭寺院で1536年の「天文法華の乱」で焼失した禅居庵摩利支天堂を天文16年(1547年)再建したと伝えられている。