2「蜂須賀 正勝の出自」(はちすか まさかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将大名豊臣秀吉(羽柴秀吉)の股肱の家臣。播磨龍野城主。徳島藩蜂須賀家の家祖。

初名は利政通称小六(ころく)もしくは小六郎(ころくろう)で、特に前者は広く知られているが、のちに彦右衛門(ひこえもん)と改名している。官位従四位下修理大夫。

出自と前歴

蜂須賀氏は尾張国海東郡蜂須賀郷を拠点とした国衆で、正勝は大永6年(1526年)、蜂須賀正利の長男として蜂須賀城に生まれた。生母は不明であるが、その生母は彼が6歳の時、享禄4年11月7日1531年12月15日)に亡くなったという。

『武功夜話』では、川並衆という木曽川の水運業を行うことで利益を得ていた集団の1つであったとされているが、信憑性には疑問が呈されている。稲田大炊助(貞祐)、青山新七(昌起)らと土豪勢力をなしていたようであるが、詳しいことはわかっていない。しかし少なくとも父・正利の代より美濃斎藤氏に仕えていたようであり、それが理由で織田信秀方に付いた一族とは敵味方に分かれていた。

織田 信秀(おだ のぶひで)は、戦国時代尾張国武将戦国大名織田信長の父。

永正8年(1511年)、尾張国南西部海東郡中島郡に跨る勝幡城愛知県愛西市稲沢市)を支配する勝幡城主で、清洲三奉行の一人の織田信定の長男として生まれる。

信定は尾張の守護代織田氏の一族で、尾張下四郡を支配する守護代「織田大和守家」(清洲織田氏)に仕える庶流として、主家の重臣の清洲三奉行の一家で弾正忠を称した家を継いでいた。

大永年間(1521〜8年)に勝幡城を築き当時、伊勢湾に近い木曽川に臨む港と牛頭天王社(津島神社)の門前町として繁栄していた津島を支配し、同家の勢力拡大のきっかけを作る。

信秀は父・信定の生前である大永6年4月(1526年)から7年(1527年)6月の間に家督を譲られて当主となる

。家督相続からまもなく、天文元年(1532年)、主家の織田達勝と清州三奉行の一人の小田井城の織田藤左衛門と争ったが、講和した。

この和議を固めるのと自らの威勢を示すため、翌、天文2年(1533年)7月京都から蹴鞠の宗家飛鳥井雅綱を招き、山科言継も同道してまず7月8日勝幡城で蹴鞠会を開催し、賓客たちと数100人の見物衆も含め多くが集まり、7月27日には清州城に舞台を移し、連日蹴鞠会を実施した(『言継卿記』)。

勢力拡大

天文7年(1538年)ごろ、今川氏豊の居城の那古野城名古屋市中区、のちの徳川家の名古屋城の場所となる)を謀略で奪い取り、ここに居城を移して愛知郡(現在の名古屋市域周辺)に勢力を拡大した。

天文3年(1534年)には信長が誕生している。

その後も勢力の拡大にともなって天文8年(1539年)に古渡城(名古屋市中区)を築き居城として二つ目の経済的基盤となる熱田を支配した。

信長の幼年時か、天文15年(1546年)の元服前に那古野城を譲っている。そして天文17年(1548年)に末森城(名古屋市千種区)を築いてさらに居城を移している。これは、当時の戦国大名は生涯あるいは代々拠点城を動かさないことが多く、特異な戦略である。

経済的に伸長し勢力を増し、上洛して朝廷にも献金し、従五位下叙位され、備後守任官された。

さらには室町幕府にも参じて、第13代将軍・足利義輝にも拝謁した。天文9年(1540年)から翌年にかけ、伊勢神宮遷宮のため、材木や銭七百貫文を献上した。これで、天文10年9月、その礼として朝廷より、三河守に任じられたというが、周囲への使用例はない。さらに天文12年(1543年)には、朝廷に内裏修理料として4000貫文を献上し、朝廷重視の姿勢を示す(『多聞院日記』)。

対外においては享禄2年松平清康が尾張に侵入し信秀の支配下の東春日井郡品野城や、愛知郡岩崎城を攻め取り、さらに今川の支援を受けて天文4年(1535年)守山まで侵攻してきたが、そこで守山崩れで不慮の死を遂げた。

それで、混乱する松平氏の隙を突いて三河に侵攻し、天文9年(1540年)には安祥城攻略し、支配下に置き長男の織田信広を置いた。

松平氏は今川義元の支援を受けたが、天文11年(1542年)の第1次小豆坂の戦いで今川軍と戦って勝利し、西三河の権益を保持したと言われるが、『信長公記』にのみ記載された。

しかし二次とは様相の違うはずの、この第一次の戦い自体があったか、今川氏の三河への進出過程から論争の対象となっている。

天文11年(1542年)、美濃では守護の土岐頼芸と子の頼次斎藤道三によって尾張国へ追放され、信秀は頼芸を支援して、越前国で同様に追放された先々代の守護の子の土岐頼純を庇護下に置いていた朝倉孝景と連携し、美濃に兵を出し斎藤道三と戦い、一時は大垣城を奪った。

こうして信秀はその頂点で、主家の大和守家への臣従関係は保ちつつ、地位や権威は主家やその主君である尾張守護斯波氏をも上回り、弟の織田信康織田信光ら一門・家臣を尾張の要所に配置し、尾張国内の他勢力を圧倒する戦国大名の地位を築いていった。

しかし信秀は終末まで守護代奉行であり、実質上は尾張を代表する戦国大名として斎藤、松平、今川ら他国大名と戦い続けたものの、形式的主君であった守護代家、守護家は維持したままで、尾張国内の大和守家や他の三奉行や犬山の織田信清など何度も敵対し争ったり、反乱されたりしているのに、最後まで徹底して粛清したり叩こうとせず、それらを抱えたまま国外の敵と戦うという限界があり、旧来の権威や秩序を重んじる古さがあったと指摘され、それらの併呑や排除は信長の代を待つことになる。

勢力の陰りとその死

天文13年(1544年)に道三の居城・稲葉山城を攻撃し城下まで攻め込んだが、道三の反撃を受けて大敗する(加納口の戦い)。