秀頼の誕生によって淀殿とその側近の勢力が台頭したことも、秀次には暗雲となった。またこの頃、大坂城の拡張工事と、京都と大阪の中間にあった淀城も破却工事が実施されたが、中村博司は論文で、これは聚楽第の防備を削り、大坂の武威を示す目的があったのではないかと主張する。

他方で、文禄の役では『豊太閤三国処置太早計』によると、秀次は文禄2年にも出陣予定であったが、秀吉の渡海延期の後、前述の病気もあって立ち消えになっていた。外交僧の景轍玄蘇が記した黒田如水墓碑文(崇福寺)によると、如水は博陸(=関白)に太閤の代わりに朝鮮に出陣して渡海するように諫めて、もしそうしなければ地位を失うだろうと予言したが、秀次は聞き入れなかったそうである。

『続本朝通鑑』にも、如水が名護屋城で朝鮮の陣を指揮している太閤と関白が替わるべきであると諭し、京坂に帰休させることで孝を尽くさずに、関白自身が安楽としていれば恩を忘れた所業というべきで、天下は帰服しないと諫言したが、秀次は聞かずに日夜淫放して一の台の方ら美妾と遊戯に耽ったと、同様の話が書かれている。翌年正月16日付の吉川広家宛ての書状にも、「来年関白殿有出馬」の文字があるが、秀次の出陣は期待されつつも実現していなかった。

 

11「秀次切腹事件

文禄4年(1595年)6月末、突然、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。秀次切腹事件を最初に描いた太田牛一『太閤さま軍記のうち』では、これを「鷹狩りと号して、山の谷、峰・繁りの中にて、よりより御謀反談合とあい聞こえ候」と描写している。秀次を中心とする”反秀吉一派”が、鷹狩りを口実にして、山中で落ち合って謀議を重ねているという噂があったというのであるが、これは当時の人々にとっても雲を摑むような話であり、俄かに信じがたいものであった。

詳細は「#粛清の理由」を参照

しかしながら、7月3日(または6月26日)、聚楽第に石田三成・前田玄以・増田長盛・富田左近など秀吉の奉行衆が訪れて、巷説の真偽を詰問し、誓紙を提出するよう秀次に要求したのである。秀次は謀反の疑いを否定して、吉田兼治に神下ろしをさせた前で誓う起請文として7枚継ぎの誓紙をしたため、逆心無きことを示そうとした。誓紙提出については『家忠日記』にも記されており、史実性は高いと考えられている。

他方で『御湯殿上日記』によると、秀次は7月3日に、朝廷に白銀3,000枚、第一皇子(覚深法親王)に500枚、准三宮(勧修寺晴子と近衛前子)に各500枚、八条宮智仁親王に300枚、聖護院道澄に500枚を献納している。

そのため、何らかの多数派工作を行ったか、または、(仮に同日であれば)偶然の一致が疑いを招き、粛清の口実になったのではないかとも考えられる。

7月5日、前年の春に秀次が家臣・白江備後守(成定)を毛利輝元のもとに派遣し、独自に誓約を交わして連判状をしたためている(または、輝元よりこのような申告があった)と、石田三成[注釈 29]は秀吉に報告した。このことから、秀吉は「とかく父子間、これかれ浮説出来侍るも、直談なきによれり」として、秀次に伏見城への出頭を命じた。

しかし、この報告の内容は事実無根であり、秀次はすぐには応じなかったようである。『続本朝通鑑』には、5日黎明、当時聚楽第近くの館にいた徳川秀忠を秀次が人質としようとしたので大久保忠隣と土井利勝が相談して秀忠を伏見へ脱出させたという記述がある[58]が真偽のほどは定かではない。

3日間どのようなやり取りや出来事があったかは明らかではない[57]が、事態は思いがけぬ方向に急転した。

7月8日、再び、前田玄以・宮部継潤・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豊の5名からなる使者が訪れ、秀次に伏見に出頭するよう重ねて促した。使者の面々は、秀次の元養父や元宿老達で、秀吉の直臣に戻った人々であった。

『甫庵太閤記』では、堀尾吉晴がなかなか言い出せないでいると、吉田修理亮(好寛)が割って入って、もし疑われるような事がないのならすぐに伏見に立つように、もし野心があって心当たりがあるのならば一万の軍勢を預けていただければ先陣を切って戦うと啖呵を切ったので、秀次はその忠勤の志に安心したが、それには及ばないと出頭を了承したとされる。『武家事紀』ではこれに加えて、秀次は自ら積極的に冤罪を晴らすとして伏見に向かったとされる。一方、宣教師達の所見をまとめた『日本西教史』では、この5名が五ヶ条の詰問状を示して謀反の疑いで秀次を弾劾したことになっていて、清洲城に蟄居するか伏見に来て弁明するかを命じたので、秀次は観念して慈悲を請うために伏見に向かったとされている。

他方、『川角太閤記』や『利家夜話』ではこれらとは異なり、秀吉によって使者を命じられた比丘尼の孝蔵主が秀次を騙して、侍医や小姓衆など僅かな供廻りだけを連れて伏見にくるように謀ったとされ、もともと秀吉には直談する意思はなく、おびき出すための謀略であったとされている。

秀次は伏見に到着したが、登城も拝謁も許されず、木下吉隆(半介)の邸宅に留め置かれた。

上使に「御対面及ばざる条、まず高野山へ登山然るべし」[57]とだけ告げられた秀次は、すぐに剃髪染衣の姿となり、午後4時頃、伏見を出立した。監視役として木下吉隆、羽田長門守(正親)、木食応其(木食興山)が同行した。その日は玉水に泊まったが、そこまでは2、3百騎の御供が従っていたので、石田三成から多すぎると指摘され、9日からは小姓衆11名と東福寺の僧である虎岩玄隆(隆西堂)のみが付き従った。

移動する途中で秀次左遷の御見舞いの飛脚が次々とやってきて賑わいを見せたので、駒井重勝および益田少将[注釈 35]と連絡をとって見舞いを送らないように通達を出させた。この夜は興福寺中坊に泊まった。10日、高野山青巌寺に入り、この場所で秀次は隠棲の身となった。以降は豊臣の姓から豊禅閤

(ほうぜんこう)と呼ばれることがある。

秀次の妻妾公達らは8日の晩に捕えられて家臣の徳永寿昌宅に監禁され、監視役として前田玄以と田中吉政が付けられていたが、11日に丹波亀山城に移送された。

12日、秀吉は、さらに高野山の秀次に対して供廻りの人数や服装の指定、出入りの禁止と監視を指図し、監禁に近い厳しい指示を出した。

7月13日、『太閤さま軍記のうち』によれば、四条道場にて秀次の家老の白江備後守が切腹し、その妻子も後を追って自害した。