戦後処理

7月5日、滝川雄利の陣所へ赴いた氏直は自身の切腹をもって城兵全ての赦免を願い出たが、切腹は見送られた。

開城・降伏の条件は北条氏は武蔵・相模・伊豆のみを領地とする。

氏直に上洛をさせる。

であったが、秀吉は前当主である氏政と御一家衆筆頭として氏照、及び家中を代表するものとして宿老の松田憲秀と大道寺政繁[64]に開戦の責があるものとして切腹を命じた。

7月7日から9日にかけて片桐且元と脇坂安治、榊原康政の3人を検使とし、小田原城受け取りに当たらせた。7月9日、氏政とその弟の氏照は最後に小田原城を出て番所に移動した。7月11日、康政以下の検視役が見守る中、氏規の介錯により切腹した。氏政・氏照兄弟の介錯役だった氏規は兄弟の自刃後追い腹を切ろうとしたが、果たせなかった。氏直は徳川家康の婿でもあったために一命は温存され、高野山に蟄居を命じられたが、翌年2月には家康を通して赦免の沙汰が伝えられ、8月に1万石が与えられたが、11月に病死した。北条氏は紆余曲折の後に河内・狭山藩の小名として豊臣・徳川期と存続した。

一方、小田原城開城後も抵抗を続けていた忍城へは、城主の氏長の小田原城での降伏を受けて使者が送られ、7月16日に開城した。秀吉はその後鎌倉幕府の政庁があった鎌倉に入り、続いて宇都宮大明神に奉幣して奥州を平定した源頼朝に倣って宇都宮城へ入城し、宇都宮大明神に奉幣するとともに関東および奥州の諸大名の措置を下した(宇都宮仕置)。

後北条氏の旧領はほぼそのまま家康にあてがわれることとなった。

 

山中城攻撃では秀次が大将となって城を半日で陥落させ、守将・松田康長の首を取ったが、一方でその戦闘で家老の一柳直末を失っている。小田原城包囲では、秀次軍は荻窪口に陣取り、7月5日、北条氏の降伏まで在陣した。

小田原城開城が一段落した直後である7月18日、秀次はそのまま奥州平定に出発して、8月6日には白河に到着。9日には黒川に至った。伊達政宗から没収して蒲生氏郷に与えられた三郡の内、会津郡の検地の監督を秀次は命じられていたが、秀吉が京都に帰還した後、葛西大崎一揆が起こった。当初、氏郷が一揆は政宗が扇動したものであると秀吉に報告したため、秀次と家康に出陣が命じられたが、後に誤報として処理されて、一旦取り消しとなった。

しかし天正19年(1591年)2月には九戸政実の乱が起きて、鎮圧に手こずった南部信直より援軍要請を受けた秀吉は、葛西大崎一揆の裁定と九戸征伐の両方を進めるために、改めて諸将に出陣を号令した。

伊達政宗、蒲生氏郷、佐竹義宣・宇都宮国綱、上杉景勝、徳川家康、そして秀次の六番の隊が出征し、総大将は秀次が務めた。

このように秀次は奥州にいて不在であったが、小田原攻めの論功行賞で、織田信雄が東海道五カ国への移封を拒否して改易されたので、信雄領であった尾張国・伊勢国北部5郡などが秀次に与えられ、旧領と合わせて100万石の大大名とされた。これに伴って、秀次は居城を清洲城に移した。年寄衆の所領も東海道に転封された。

同じ天正19年の1月22日に秀長が、8月5日には秀吉の嫡男・鶴松が相次いで死去した。通説ではこの年の11月に秀次は秀吉の養嗣子となったとされるが、養子となった時期についても、従来より諸説あって判然としておらず、それ以前に養子とされていたという説もある[25]。しかしこの頃に秀吉は関白職を辞して、唐入り(征明遠征)に専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せると言い出しており、後継者にすることが決まったことは、ほぼ確実のようである。

関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられ、11月28日には権大納言に任ぜられ[26]、12月4日には内大臣に任ぜられた。

12月20日、『本願寺文書』および『南部晋氏所蔵文書』によると、秀吉は5ヶ条の訓戒状を秀次に出している。

前4条は天下人としての一般的な心得を述べたものだが、最後の条で「茶の湯、鷹野の鷹、女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯は慰みにて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又鷹はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い、鷹野の鷹、茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」と個人的な行いについて特に“自分のように振る舞うな”と戒めて、神明に誓わせた。

 

9「秀次関白に出世する」

12月28日に、秀次は関白に就任して、同時に豊臣氏の氏長者となった 。関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第を主な住居として政務を執ったが、諸事は秀吉が定めた「御法度」「御置目」に従うようにされており、太閤秀吉が依然として統括的立場を保持して二元政治のようになった。

天正20年(1592年)1月29日、左大臣に補任された。2月には2回目の天皇行幸があり、秀次がこれを聚楽第で迎えた。これは秀次への権力世襲を内外に示したものと理解されている。

3月26日に淀殿を伴って名護屋城に出征した秀吉が唐入りに専念する一方で、秀次とその家臣団による国内統治機構の整備は進んでいったようである。

朝尾直弘は「いったん譲ってしまうと、関白を中心とする国制機能は独自に発動され、太閤権力の制御の枠をこえる動きをみせようとした」と説明するが、『駒井日記』の4月7日の条によると、前田利家、前田利政、佐竹義宣、里見義康、村井貞勝、真田昌幸らの官位授与・昇叙に対して秀吉は秀次の同意を求めて、その上で上奏するように指示しており、制度上の関白・秀次の地位が、独自の権力を生む余地を生んだとされる。

秀吉の隠居地とされた伏見城(指月城[注釈 20])の築城作業も、結局は秀次の管理下で行われた。

5月17日、従一位に叙せられた。8月の大政所の葬儀も、喪主は秀吉であったが、葬儀を取り仕切ったのは秀次であった。

12月8日に元号が文禄に改元されるが、この時期に天皇即位や天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制の統治権の移譲に関係した改元であったと考えられている。