彼我の差は10倍以上であったが家臣らと籠城戦を戦った。本多忠勝が近隣の山に大砲を運び上げ、城に向かって打ち込み始めると被害は甚大となり、約1か月の戦いの末、城兵の助命と引き換えに守将の氏邦は開城した。

鉢形城攻将の前田利家が氏邦の助命嘆願を行い、氏邦は剃髪することで一命を許され、身柄は利家の預かりとなり、領国内の能登国津向(現在の七尾市)に知行1000石を得た。

忍城の戦い

忍城の成田氏当主の成田氏長と弟の泰親が小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。

当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。

攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲した。秀吉は三成に対し、近くを流れる利根川を利用した水攻めを行うよう命じ、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤(石田堤)の築堤が進められた。

しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であったため、水攻めの効果は薄かった。

その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。

鉢形城を落とした浅野長政や真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。

その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城開城により降伏した氏長の説得により、開城した。城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。

八王子城の戦い

八王子城攻めには、上杉景勝・前田利家らの部隊約1万5,000人が動員された。当時八王子城は城主・氏照が不在で、場内には城代の横地吉信、家臣の狩野一庵、中山家範、近藤綱秀および近隣の農民・婦女子ら約3,000人が立てこもっていたとされる。先に松井田城で降伏開城した大道寺政繁の手勢も攻撃軍に加わり、城の搦手の口を教えたり、正面から自身の軍勢を猛烈に突入させたりなど、攻城戦に際し働いたとされている。

 秀吉軍は前夜のうちから城の大手と搦手の双方から侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり攻め手も1000人以上の死傷者を出し、一時は攻撃の足が止まったが、上杉景勝の下にいた藤田信吉の家臣の平井無心が、この周辺の地理に詳しく、抜け道を案内した。絡め手側別働隊の奇襲が成功して、その日のうちに城は陥落した。

氏照正室の比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。

城代の横地監物は檜原村に脱出したが、小河内村付近にて切腹している。獲られた将兵の頸は本来の城主である氏照も籠る小田原に運ばれ船に並べて堀に浮かべられ、または捕虜にした者を小田原城の城門近くに晒すなどして、八王子落城の現実を小田原城守備兵に見せ付けることで、豊臣方は小田原城の早期開城を迫った。

小田原開城へ

5月9日には後北条氏と同盟を結んでいたはずの奥州の伊達政宗が、秀吉の参陣要請(要求)に応じて本拠から小田原へと向かった。

開城への勧告は5月下旬頃から始められており、それに伴う交渉は、支城攻略にあたった大名たちなどによって、それぞれに行われていた。

6月に入ると、小田原を囲む豊臣軍主力の中に乱暴狼藉を働く者や逃散が頻発するようになる(「家忠日記」)。

包囲中、戦らしい戦と言えば、北条氏房(太田氏房)が蒲生氏郷勢に夜襲をかけたのが後北条氏側唯一の攻勢であり、囲む方は、井伊直政が蓑曲輪に夜襲を仕掛けた作戦と6月25日夜半に捨曲輪を巡る攻防があったぐらいであった。それ以外は、互いの陣から散発的に鉄砲を射掛けるぐらいのものであった。

そんな中、後北条氏側から離反の動きが見えるようになった。4月8日、小田原城に在陣中の皆川広照が豊臣軍に投降し、6月初旬には家康の働きかけによって上野の和田家中と箕輪城家中が城外に退去している。

6月16日には、重臣であった松田憲秀の長子の笠原政晴が数人の同士とともに豊臣側に内通していたことを政晴の弟の松田直秀が氏直に報告することで発覚、政晴は氏直により成敗された。また、その数日後に氏政の母である瑞渓院と、継室の鳳翔院が同日に死去しており、「大宅高橋家過去帳」の鳳翔院の記載から共に自害と見られている。さらに6月23日に北方隊が落とした八王子城から首多数が送られ、また将兵の妻子が城外で晒し者にされたことが後北条氏側の士気低下に拍車をかけた。

6月26日には小田原城を見下ろす石垣山に関東初の総石垣の威容を誇った一夜城(石垣山城)が完成したことも後北条氏側に打撃をもたらした。

このとき、後北条氏の一族・重臣が豊臣軍と徹底抗戦するか降伏するかで長く紛糾したため、本来は平時に月2回ほど行われていた後北条氏における定例の施政方針重臣会議を指すものであった「小田原評定」という言葉が、「一向に結論がでない会議や評議」という意味合いの故事として使われるようになった。

この6月に入る頃には、氏房、氏規、氏直側近らによって、家康と織田信雄を窓口とした和平交渉が進んでいた。

後世になって成立した『異本小田原記』では伊豆・相模・武蔵領の安堵の条件での講和交渉は行われ、同じく『黒田家譜』では、その講和条件を後北条氏が拒否したために秀吉が黒田孝高に命じて交渉に当たらせた事などが記されているが、実際のこの頃には後北条領は家康に与えられることになっていたと考察されており、伊豆は4月中旬には既に家康の領国化が始まっていた。残されていた北条氏の拠点城も、北の鉢形城は6月14日に守将の北条氏邦が出家する形で開城となり、伊豆の韮山城も6月24日に開城し北条氏規が秀吉の元に出仕した。八王子城の落城に続いて津久井城も開城し、秀吉は黒田孝高と共に織田信雄の家臣滝川雄利を使者として氏政、氏直の元に遣わした。

7月5日、氏直は滝川雄利の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出、秀吉に氏直の降伏が伝えられた。