8「一国一城の大名で小田原征伐」

同年7月頃、秀吉の関白就任に前後して、その偏諱を受けて秀次と改名し、羽柴秀次を名乗った。

二代関白へ

8月6日、長宗我部元親が降伏して四国平定が成ると、その後の評定によって大掛かりな国替え・加増が行われた。

結果、秀次の本人分としては20万石、宿老(中村一氏・山内一豊・堀尾吉晴)たちへの御年寄り衆分としては23万石が与えられ、併せて43万石の大名とされた。領地は東西交流の要となる近江国の蒲生・甲賀・野洲・坂田・浅井の5郡で、秀次は蒲生郡の現在の近江八幡市に居城を構えることとし、安土を見下ろして琵琶湖にも近い場所に、八幡山城を築いた。

縄張や築城工事の都督、作業工程まで具体的な指示が書状で示されているところを見ると、諸将の配置、場所の選定なども含めてすべて秀吉の指図であったと思われる。八幡山城は後の事件で破却を命じられたために現存しないが、日牟禮八幡宮の上宮を移築して山頂の尾根に三層の天守閣が築かれた山城は、所謂、詰の城で、山麓の居館との二つに分かれていた。城下町の町人は主に安土から転居しており、計画的に造られた町並みは、八幡堀として現在もその姿を留めている。

上下水道も整備され、地名に残る「背割」とはもともとは下水のために掘られた溝を指す。

秀次は、領内の統治では善政を布いたと言われ、近江八幡には「水争い裁き」の逸話などが語り継がれている。

これは宿老の田中吉政の功績が大きいとも言われているが、まだ17歳であったことを考慮すれば、輔佐を受けつつも徐々に家来衆を使いこなして順調な統治を進めたのであろう。

悪政を敷いた代官を自ら成敗したり、名代を任せた実父の三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性を発揮した面も伝わっている。

また同年10月頃、秀次は従四位下右近衛権少将に叙任された。

天正14年(1586年)の春頃、秀次はさらに右近衛権中将に叙され、11月25日、豊臣の本姓を秀吉から下賜され[22]、同時に参議にも補任された。

天正15年(1587年)、九州征伐では、前田利家を輔佐として、秀吉の名代で京都留守居を命じられて、秀次は出陣しなかった。11月22日に従三位に昇叙して権中納言に任ぜられた。

天正16年(1588年)4月14日に聚楽第に後陽成天皇の行幸を迎えた際、忠誠を誓う署判の序列では、徳川家康(大納言)、織田信雄(内大臣)、豊臣秀長(権大納言)、豊臣秀次、宇喜多秀家、前田利家の順で署名したが、この時までに秀次の家臣内序列は四番目に上がっていた。

4月19日には従二位に昇叙。

天正18年(1590年)の小田原征伐には出陣し、秀長は病気であったために秀次が副将とされ、今度は徳川家康の指南を受けるように指示された。

小田原征伐(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590年)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。

後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており、関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。ここでは小田原城の攻囲戦だけでなく、並行して行われた後北条氏領土の攻略戦も、この戦役に含むものとする。

小田原合戦小田原攻め小田原の役北条征伐小田原の戦い小田原の陣小田原城の戦い(天正18年)とも呼ばれた。

北条氏康から氏政の時代へ

戦国時代に新興大名として台頭した北条氏康は武蔵国進出を志向して河越夜戦で、上杉憲政や足利晴氏などを排除し、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元との甲相駿三国同盟を背景に関東進出を本格化させると関東管領職を継承した越後の上杉謙信と対峙し、特に上杉氏の関東出兵には同じく信濃侵攻において上杉氏と対峙する武田氏との甲相同盟により連携して対抗した。

戦国後期には織田・徳川勢力と対峙する信玄がそれまでの北進策を転換し駿河の今川領国への侵攻(駿河侵攻)を行ったため後北条氏は甲斐との同盟を破棄し、謙信と越相同盟を結び武田氏を挟撃するが、やがて甲相同盟を回復すると再び関東平定を進めていく。

信玄が西上作戦の途上に急死した後、越後では謙信の死によって氏政の庶弟であり謙信の養子となっていた上杉景虎と、同じく養子で謙信の甥の上杉景勝の間で御館の乱が勃発した。

武田勝頼は氏政の要請により北信濃まで出兵し両者の調停を試みるが、勝頼が撤兵した後に和睦は崩れ、景勝が乱を制したことにより武田家との同盟は手切となった。

なお、勝頼と景勝は甲越同盟を結び天正8年(1580年)、北条氏は武田と敵対関係に転じたことを受け、氏照が同盟を結んでいた家康の上位者である信長に領国を進上し、織田氏への服属を示した。氏政は氏直に家督を譲って江戸城に隠居したあとも、北条氏照や北条氏邦など有力一門に対して宗家としての影響力を及ぼし実質的当主として君臨していた。

武田氏との手切後、勝頼は常陸国の佐竹氏ら反北条勢力と同盟を結び対抗し、織田信長とも和睦を試みているが天正10年(1582年)に信長・徳川家康は本格的な甲州征伐を開始し、後北条氏もこれに参加している。

この戦いで武田氏は滅亡し、後北条氏は上野や駿河における武田方の諸城を攻略したものの、『信長公記』に「後走の人数を出し(時機を逸した軍勢を出して)」と批判される結果に終わり、戦後の恩賞は皆無であった。

しかし、同年末の本能寺の変で信長が明智光秀の謀反によって自刃した直後に北条氏は織田家に謀反を起こし織田領に攻め込んだ。

織田氏家臣の滝川一益の軍を敗退させた神流川の戦いを経て、織田体制に背いた北条氏を征伐するために軍を起こした家康との間に天正壬午の乱が勃発した。

この遠征は家康が単独で行ったものではなく、織田体制から承認を得たうえでの行動であり、織田体制側からも水野忠重が援軍として甲斐に出兵していた。

また、追って上方からも援軍が出兵される予定であったが織田信雄と織田信孝の間で政争が起こったため中止された。

家康は北関東の佐竹義重、結城晴朝、皆川広照、水谷正村らと連携しながら北条氏打倒を目指した