一方奥熊野では、新宮の堀内氏善が4月13日以前には降伏したのを筆頭に、高河原・小山・色川氏らはいずれも上方勢に帰順し、それぞれ本領安堵された。また口熊野でも安宅氏は帰順した。

高野山降伏

4月10日、秀吉は高野山に使者を派遣して降伏を勧め、これまでに拡大した領地の大半を返上すること、武装の禁止、謀反人を山内に匿うことの禁止などの条件を呑まねば全山焼き討ちすると威嚇した。

高野山の僧侶たちは評定の結果条件を全面的に受け入れることに決し、16日に客僧の木食応其を使者に立てた。

応其は高野重宝の嵯峨天皇の宸翰と空海手印の文書を携え、宮郷に在陣中の秀吉と面会した。

応其の弁明を秀吉は受け入れ、高野山の存続が保証された。その後、10月23日までには高野山の武装解除が完了した。

この結果高野山は滅亡を免れ、太閤検地終了後の天正19年(1591年)に1万石の所領を安堵された。

また木食応其個人に1,000石が与えられた。同20年(1592年)、大政所追善に当たって剃髪寺(のち青巌寺、現在の金剛峯寺)を建立した際に秀吉から1万石寄進されたため計2万1000石となり、江戸時代もこれが寺領として確定する。

太田城水攻め

雑賀荘は上方勢により占領されたが、太田左近宗正を大将になおも地侍ら5,000人が日前国懸神宮にほど近い宮郷の太田城に籠城した。

3月25日、中村一氏・鈴木孫一が城を訪れ降伏勧告を行ったが、城方は拒否した。

小雑賀の戦闘

太田城以外にも、雑賀では複数の城が抵抗を続けていた。佐武伊賀守は的場源四郎と共に小雑賀の城に籠城し、32日間にわたって守り抜き、太田城開城後に続いて開城したという。

太田城攻防戦

この時の戦いの様子は第二次太田城の戦いも参照

太田城はフロイスが「一つの市の如きもの」と表現したように、単なる軍事拠点ではなく町の周囲に水路を巡らした環濠集落である。

この城を秀吉は当初兵糧攻めで攻略する予定だったが、兵糧攻めでは時間がかかりすぎる[95]ために水攻めに変更した。

強攻ではなく持久戦を選択した理由として、兵力の損耗を防ぐこともさることながら、犠牲が増えることによって苦戦の印象が広まるのを回避するためだったと思われる。これに先立つ和泉千石堀城の戦いでは、城の煙硝蔵が爆発したために1日で攻略できたものの攻城側にも多大な犠牲が出ており、太田城でその二の舞を演じることを恐れたと考えられる。

また一面では、本来太田城を守る存在であった水を使って城を攻めることで、水をも支配する自らの権力を誇示しようとしたとも考えられる。水攻め堤防は全長7.2㎞、高さ7㎡に及んだ。

上方勢は秀吉自身を総大将、秀長と秀次を副将として、その下に細川忠興・蒲生賦秀・中川秀政・増田長盛・筒井定次・宇喜多秀家・長谷川秀一・蜂須賀正勝・前野長泰などの編成だった。

3月28日から築堤が開始された。この築堤工事の途中、甲賀衆の担当部分が崩れたため、甲賀衆が改易流罪となり、山中大和守重友は所領を没収された。4月5日までには完成し、注水が始まる。

一方城の北東には以前から治水及び防御施設として堤(以下これを横堤と呼ぶ)が築かれており、籠城が始まると城方によってさらに補強された。横堤の存在によって城内への浸水は防がれた。

4月8日、横堤が切れて城内へ浸水し、城方を混乱に陥れた。ところが横堤が切れたために水圧に変化が生じたことで、翌9日には逆に水攻め堤防の一部が切れ、寄手の宇喜多秀家勢に多数の溺死者が出た。籠城側はこれを神威とみなした。攻城側は直ちに堤防の修復にかかり、13日までには修理を完了させた。

17日に織田信雄、18日に徳川義伊と石川数正が雑賀を訪れる。

秀吉は当初、水攻めが始まれば数日で降伏させられると考えていた。

しかし一度破堤したことで籠城側は神威を信じ、粘り強く抵抗していた。4月21日、攻城側は一気に決着をつけるべく、小西行長の水軍を堤防内に導く。

安宅船や大砲も動員してのこの攻撃で、一時は城域の大半を占拠した。だが城兵も鉄砲によって防戦し、寄手の損害も大きく撤退した。攻略には至らなかったがこの攻撃で籠城側は抗戦を断念し、翌22日、主だった者53人の首を差し出して降伏した。

53人の首は大坂天王寺の阿倍野でさらされた。また主な者の妻23人を磔にかけた。

その他の雑兵・農民らは赦免され退城を許された。

秀吉は降伏して城を出た農民に対し、農具や家財などの在所への持ち帰りを認めたが、武器は没収した。これは兵農分離を意図した史料上初めて確認できる刀狩令と言われる。宮郷の精神的支柱だった日前宮は社殿を破却され、社領を没収された。

戦後

日高・牟婁郡の一部では依然抵抗が続いていたが、その他の地域はおおむね上方勢により制圧された。

紀伊平定後、秀吉は国中の百姓の刀狩を命じる。紀伊一国は羽柴秀長領となり、秀長は紀伊湊に吉川平介、日高入山に青木一矩、粉河に藤堂高虎、田辺に杉若無心、新宮に堀内氏善を配置した。

また藤堂高虎を奉行として和歌山城を築城し、その城代に桑山重晴を任じた。秀長による天正検地は天正13年閏8月から始まり、翌々年の同15年(1587年)秋以降に本格化する。

和議と直春の死

4月末、湯河直春は反攻に転じたため、これに対応するため四国征伐軍の一部が割かれ紀伊に差し向けられた。