特に天正11年(1583年)5月から7月にかけて関東地方から東海地方一円にかけて大規模な大雨が相次ぎ、徳川氏の領国も「50年来の大水」(家忠日記)に見舞われていた。その状況下で豊臣政権との戦いをせざるを得なかった徳川氏の領国の打撃は深刻で、三河国田原にある龍門寺の歴代住持が記したとされる『龍門寺拠実記』には、天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで多くの人々が動員された結果、田畑の荒廃と飢饉を招いて残された老少が自ら命を絶ったと記している。

徳川氏領国の荒廃は豊臣政権との戦いの継続を困難にし、国内の立て直しを迫られていた。

こうした中、天正13年11月13日(1586年1月2日)、徳川家の実質ナンバー2だった石川数正が出奔して秀吉に帰属する事件が発生する。

この事件で徳川軍の機密が筒抜けになったことから、軍制を刷新し武田軍を見習ったものに改革したという(『駿河土産』) このような状況から、当時、家康は風前の灯だと見られていた。

ところが天正13年11月29日(1586年1月18日)に列島の中央部を「天正大地震」が襲う。マグニチュード(M)8クラス、最大震度6だったとされる。

この時の地震による被害としては、富山県高岡市の木舟城は陥没し、城主・前田秀継(利家の弟)が死亡。岐阜県白川村の帰雲城も城下もろとも埋没し、このため城主内ヶ島氏一族が滅亡。このように被害は中部、東海・北陸の広範囲に及んだ。このとき秀吉は近江国坂本城にいたが、あまりの恐ろしさにすぐに大坂城に逃げ帰ったという。

国際日本文化研究センターの磯田道史・准教授は「天災から日本史を読みなおす」(中公新書)で、この地震を「近世日本の政治構造を決めた潮目の大地震」だったと指摘。

この地震がなければ、家康は2カ月後に秀吉の大軍から総攻撃を受けるはずだったとしている。

天正12年(1584年)の「小牧・長久手の戦い」で局地戦では勝った家康だが、その後の秀吉は秀吉包囲網を瓦解させ、紀州や四国など版図を飛躍的に拡大し彼我の軍事力には大きな差がついていた。

戦争に突入すればその後の後北条氏のように、家康には滅亡の可能性すらあっただろう。ところが震災で、秀吉の対家康前線基地の大垣城が全壊焼失、同盟軍の織田信雄の長島城も倒壊したという。秀吉軍を展開させるはずの美濃・尾張・伊勢地方の被害が大きく、戦争準備どころではなくなっていた。

一方の家康側は、この地震により岡崎城が被災したが、領国内は震度4以下だったという。もっとも天正大地震以前に大雨や小牧・長久手の戦い等への領民動員で徳川氏の領国は荒廃しており、家康にしても豊臣政権との戦いどころではなかった。

秀吉は家康征伐を中止して和解路線に転じ、1年近くにわたる交渉を経て、天正14年(1586年)10月27日、家康は大坂城において秀吉に謁見し、諸大名の前で豊臣氏に臣従することを表明。豊臣政権ナンバー2の座を確保し将来に備えることとなる。

 

6「叔父秀長の副将として紀伊雑賀征伐」

義兄・森長可が三河国に攻め入るという「中入り」策を秀吉に強く提案し、信吉もこの別働隊の総大将になりたいと志願して認められたが、4月9日、白山林で榊原康政・大須賀康高らに奇襲されて、壊滅的な大敗を喫した。軍目付として同行していた木下助左衛門(祐久)と木下勘解由(利匡)が信吉を守ろうとして討死する中で、本人は馬もなく徒歩で命からがら落ち延び、堀秀政隊の救援で何とか脱出した。結局、長久手では恒興・元助、長可ら多くの武将が討たれてしまった。見苦しい敗北で不甲斐ない様を見せたとして、怒った秀吉から激しく叱責される。

山鹿素行の『武家事紀』によれば、信吉は失った木下勘解由ら部下の代わりに池田監物を遣わされるように訴えたようで、一柳市助(直末)を使者としたが、秀吉は口上しただけの市助を手討ちにしようと思ったほど大激怒し、家臣を見殺しにした大たわけであるとして5箇条の折檻状を送って厳しく戒めた。

この中で秀吉は、自分の甥としての覚悟と分別を持つように求めて、それに応えるならば何れの国でも知行を認めるが、今の様に無分別ならば「一門の恥であるから手討ちにする」とまで述べている。

また世継ぎである於次丸秀勝は病身であるから将来は名代を継がせる考えもあるが、それは覚悟次第であると述べて、重ねて自覚を持つように要求して、宮部継潤と蜂須賀正勝を派遣するので詳細を聞くようにと申し渡した[注釈 16]

天正13年(1585年)、秀吉が紀伊雑賀征伐に出陣すると、信吉(秀次)は叔父・秀長と共に副将を任されて汚名を雪ぐ機会を得た。

秀吉の紀州攻め

根来寺は室町時代においては幕府の保護を背景に紀伊・和泉に八か所の荘園を領有し、経済力・武力の両面において強力であった。戦国時代に入ると紀北から河内・和泉南部に至る勢力圏を保持し、寺院城郭を構えてその実力は最盛期を迎えていた。天正3年(1575年)頃の寺内には少なくとも450以上の坊院があり、僧侶など5,000人以上が居住していたとみられる。

また根来衆と通称される強力な僧兵武力を擁し、大量の鉄砲を装備していた。根来寺は信長に対しては一貫して協力しており友好を保っていたが、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の戦いにおいて留守の岸和田城を襲うなどしたほか、大坂への侵攻の動きも見せていたため、秀吉に強く警戒されており、秀吉側は根来寺を攻略する機会を伺っていた。

本能寺の変は雑賀衆内部の力関係も一変させた。天正10年6月3日朝に堺経由で情報がもたらされると、親織田派として幅を利かせていた鈴木孫一はその夜のうちに雑賀から逃亡し、4日早朝には反織田派が蜂起して孫一の館に放火し、さらに残る孫一の与党を攻撃した。

以後雑賀は旧反織田派の土橋氏らによって主導されることとなった。土橋氏は根来寺に泉識坊を建立して一族を送り込んでいた縁もあり、根来寺との協力関係を強めた。また織田氏との戦いでは敵対した宮郷などとも関係を修復し、それまで領土の境界線などをめぐり関係の際どかった根来・雑賀の協力関係が生まれた。