防府の天神山には、松崎天満宮(防府天満宮)に鷲頭隆政朝倉弘房が率いる大内軍2,000が駐屯していたが、毛利軍の大軍により壊滅する[6]。この時の毛利軍は兵2万に及び、情勢不利により山口へ撤退しようとしていた鷲頭・朝倉勢を佐波川周辺で撃ち破ったとされる。

一方、右田ヶ岳城の右田隆量野田長房らは元就の勧告に応じて降伏した。この降伏は、元就が富田若山城に入城した後に送った書状によるとも、鷲頭・朝倉勢の敗北後に毛利軍が迫ってからの降参とも言われる。

右田ヶ岳城には南方就正が城番として入り、毛利軍に降った右田隆量は、山口攻めの先鋒として氷上山の砦を落とすなど戦功を上げている。

防府を制圧した元就は、松崎天満宮の大専坊に本陣を移して山口総攻撃の指揮を執ることとした。

大内義長の最期

義長と隆世の軍勢のみとなった大内軍は、厳島の戦いの後に築城が始められたばかりで未完成の高嶺城に籠城し高嶺城の南の守りとなる支城・姫山城には宍道隆慶が入っていた。

しかし、先の4日に行われた杉重輔と内藤隆世による戦いで山口の町は焦土と化しており、そこへ元就に与した吉見正頼も阿武郡渡川の野上房忠勢2000を排除して宮野口へと迫っていた。

京都同様に防衛には向いていない山口を放棄した義長・隆世らは長門豊浦郡下関市)の且山城(勝山城)へ逃亡した。その情報は、15日には毛利本陣に報告された。

毛利軍は山口へ侵攻し、姫山城の宍道勢は降伏。毛利本隊は山口の占領に動き、大内義長追討は福原貞俊に5,000の軍勢を預けて一任する。

そして、大内義長の実家である大友氏の援軍を阻止するために、陸路で1,000余騎を下関へ向かわせ、さらに長門の周防灘から関門海峡にかけてと豊前一帯を、乃美宗勝を主力とする毛利水軍村上水軍を派遣して、海上封鎖を行った。なお、前年(1556年)のものと思われる11月19日付けの元就の書状で、堀立直正が赤間関(下関の古名)の要害を攻略したことを賞しており、義長らの退路は早い段階で断たれていた。また、毛利軍に呼応して山口へ入った吉見正頼の功を称えた元就は、3月22日に宴を催したとされる。

義長が立て籠もった且山城は堅城であり、城を包囲した福原勢の城攻めは難航した。

そこで元就は福原貞俊に策を預け、「陶晴賢に荷担した謀反人である隆世を許すわけにはいかないが、陶の傀儡であった義長には遺恨は無いので助命して大友氏に送り返す」と勧告する矢文を入れた。

反対する義長を説得してこれを受け入れた隆世は4月2日に自刃し、義長は開城した且山城を出て長福院(功山寺)に入った。

しかし、翌3日に福原勢は長福院を包囲して義長に自刃を迫った。謀られた義長であったが、最早どうすることもできずに自害した。陶晴賢亡き後を支えた陶氏の忠臣・野上房忠も長房の嫡子・鶴寿丸を殺害の後に自害した。

辞世の句

大内義長「誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ」

野上房忠「生死を断じ去って 寂寞として声なし 法海風潔く 真如月明らかなり」

これにより大内氏と陶氏の正当なる後継者は絶え、元就による防長経略は完了した。元就は、4月23日に防府を発って吉田郡山城へ凱旋した。

大内氏遺臣の蜂起

防長経略の完了から2ヶ月後の弘治3年(1557年)6月、元就が帰国した機を捉えて陶氏家臣であった佐藤宗左衛門尉父子が山口にて蜂起し、山口守備の任に当たっていた市川経好と祖式某によって鎮圧された。

この戦いで大内氏の降将である温科種重が負傷しつつ奮闘し、元就から賞賛されている。

さらに、大内氏の重臣であった陶氏、内藤氏、杉氏、問田氏などの遺臣が与党を糾合して防長各地で蜂起。11月10日には大内氏遺臣の草場氏・小原氏・河越氏らが、義隆の遺児問田亀鶴丸を擁立して山口に乱入し、障子ヶ岳城障子岳)に籠城した。

この時、たまたま山口に滞在していた毛利方の内藤隆春雑賀隆利と共に鎮圧に乗り出し、翌11月11日には雑賀隆利が障子ヶ岳城を急襲して、妙見崎山で大内氏残党軍を撃ち破った(妙見崎の戦い)。この戦いで杉重輔の遺児・松千代(後の杉重良)の軍勢は敵兵の首級を35挙げ、勝間田盛道は負傷しつつも問田氏の遺臣2人を討ち、三戸元貞有馬世澄らも戦功を挙げた。

また、同じ頃に山口に近い糸米においても大内氏遺臣が蜂起を企てたが、百姓・与三右衛門の内通によって蜂起を事前に察知した久芳賢直によって未然に鎮圧され、長門国においても大内氏遺臣が蜂起したが、長門国一宮・住吉神社大宮司である賀田盛実勝間田就盛と協力して鎮圧した。

さらに周防国の徳地富海富田でも大規模な大内氏旧臣の蜂起が起こったため、大内氏の降将で周防国切山保に所領を有する波多野勝実が兵を率いて防府の右田ヶ岳城に籠城して徳地方面の蜂起を防ぎ、児玉就忠の被官である大楽彦三郎別所城に籠城して富田と富海方面の蜂起を防いだ。

大内氏旧臣の蜂起を知った元就と隆元も11月18日に再度出陣していたが、元就らが富田に着陣した11月末頃までに反乱はほぼ一掃されており、元就らは12月26日に吉田へと帰着した。

なお、元就が三子教訓状をしたためたのは、富田の勝栄寺に在陣中していた11月25日とされている。

その後の影響

毛利氏

大内氏の所領であった周防・長門を併呑することによって毛利氏は一気にその勢力を拡大し、尼子氏と並ぶ中国地方有数の大大名となった。そして、石見銀山を巡って尼子氏と、博多の権益を巡って九州の大友氏との本格的な対立が始まる。なお、毛利氏に抗おうとする大内氏残党の掃討が完了するのは、永禄12年(1569年)までかかった。

また、防長経略で地下人らの強い抵抗に直面した元就は、反発の原因となる軍勢狼藉(兵士たちによる放火や略奪などの不法行為)などを防ぐために安芸国人衆12名による契状を作成している。

これには、石見に進軍して防長経略には不在だった吉川元春らの名前も記されている(花押は無い)一方で、禁止事項の適用範囲・期限が明確にされていないことから、毛利氏が国人領主から戦国大名に転身することを図ったものと考えられている。