陶氏と吉見氏は、長年に渡り険悪な関係にあったが、特に義隆と関係の深かった吉見正頼(義隆は正頼の吉見家当主相続の恩人であり、義隆の姉婿が正頼でもある)は、謀反人の陶晴賢と敵対した。そのため、天文23年(1554年)には義隆の姉婿であった吉見正頼が晴賢に対して公然と反旗を翻し挙兵(三本松城の戦い)。これが、毛利氏が大内方から独立する防芸引分のきっかけともなった。

村上水軍(瀬戸内海)

瀬戸内海の交通拠点である厳島の権益に注目していた晴賢は、大寧寺の変で真っ先に接収した厳島にて駄別料(通行料)の徴収を始めた。

義隆の頃までは、村上水軍が駄別料徴収を認められていたため、村上武吉らの反発を招いた。これが、後の厳島の戦いで村上水軍が毛利方に付く要因の一つとなった。

その他(国内外)

は大内義長を簒奪者として日明貿易の再開を認めず、ここに勘合貿易は名実共に終結した。そして日中間の取引は商人や大名による私貿易・密貿易が中心となった。

謀反の理由

陶隆房らが謀反を起こした理由については、以下の点が指摘されている。

義隆の治世・政務に対する反発

第一次月山富田城攻め失敗後の義隆が、公家のような文弱な生活を始めたことに対する反発(乱に巻き込まれた公家たちも容赦なく殺害されている)[11]と、それらにかかる浪費と増税という悪政の是正。

武功派(陶隆房、内藤興盛など)と文治派(相良武任)の関係が決裂し、なおかつ武任を重用し続けた義隆への不満。

武功派と文治派の実態については、評定衆を務める守護代クラスの重臣と山口の政庁にいた奉行衆や地方の各郡に置かれた郡代などの当主直属の吏僚との対立とも考えられている。

義隆の祖父にあたる大内政弘は晩年(応仁の乱終結後)に自らの権限拡大のため、山口では奉行衆などの政庁吏僚が、それ以外の領国では政弘が任じた郡代に地方支配を当たらせる体制を構築し(守護代の家臣が郡代に任じられた例もあるが、その職務は山口の政庁から指示を受けていた)、その体制は義興・義隆へも継承された。

しかしこの体制は、それぞれの領国で影響力を強めたい守護代たちと、当主の意を奉じて郡の統治を行う郡代らとの衝突の要因を生んだ。

当意向を受けた吏僚たちによって租税徴収などをはじめとする大内氏領国の内政が掌握される一方で、出雲遠征の敗戦後に軍事行動が減少すると軍務を担ってきた守護代の立場が失われていった。その結果、大内氏の政務における実権を奪われた陶晴賢ら守護代の不満の矛先が、相良武任をはじめとする吏僚たちとその背後にいる当主・義隆に向けられたと考えられる。

天文19年(1550年)に隆房が毛利に宛てた書状によると、当初は義隆を隠居させて嫡子義尊を当主に据える主君押込を考えていたが、義尊を生んだ継室おさいの方を中心とした派閥(おさいの方に推挙されて取り立てられた者など)が存在しているため、前述の問題を解決させるために義隆・義尊父子を討って大友晴英を擁立するに至った。

さらに当時は、義尊は義隆の実子では無いという噂もあり(大内義隆記)、事態に拍車をかけた可能性がある。なお、当初計画を変更したのは天文20年(1551年)頃とする場合もあるが[6]、時期ははっきりしない。

義隆と隆房の対立

もともと東大寺の旧領であった陶の領地の一部を、かつて義隆が東大寺に返還しようとしたことに対する恨み(ただし、最終的に領地返上は実行はされていない)。

文明14年(1482年)に、隆房の祖父にあたる陶弘護が吉見正頼の伯父にあたる吉見信頼に暗殺された山口大内事件の背景として、大内政弘が、応仁の乱で出陣中に留守を守って国政を握った弘護の排除を図った疑惑があり(殺害した吉見信頼はその場で討たれたものの、遺族は赦免されている)、以来、主家・大内氏による当主権威の強化の動きに対して陶氏一族が抱き続けてきた不信感が義隆と隆房の代になって表面化してきたというもの。

大内義隆の対応

隆房謀反の動きについては、早々より杉重矩や冷泉らにより義隆に注進があり、隆房討伐すら提案されていた。

しかし、義隆は隆房への疑いを信じようとせず、無策に過ごしていたとされる。一方で、既に義隆には隆房に対抗する力もなかったと言える。

義隆は周防長門を始め7ヶ国の守護であったが、各地の統治を守護代に委ねており、守護代は大きな力を持っていた。

その上、政務への関心を失った義隆がますます守護代に軍事を一任したため、彼らと任地における国人の癒着は強まっており、軍事力を増強させている。そのため、周防守護代陶氏の力は大内氏を陵駕しており、対抗力は失われていたとされる。

義隆が元就に送った書状に「家中が錯乱した際には、合力することを申し遣わす」とあり、謀反直前の天文20年(1551年)正月に、謀反に備えて毛利の来援を求めたものとされていたが、近年の研究では天文5~6年(1536〜1537年)頃の書状であり大寧寺の変とは無関係とする説(毛利家臣団で反抗的な井上一族の誅殺を考え始めた元就が、義隆に承諾を求めた件での返書)もある。

反逆への評価

謀反について、隆房自身は「我が運も義隆の御運も、天道のはからい」として正当化した(大内義隆記)。

なお、主君への反逆が悪であるという概念が普及する江戸時代と異なり、不適切な主君を家臣が追い落として新たな主君を迎えるというのは、ある種の自浄作用とする意見もある。

天文21年(1552年)、幕府に使者を送って謀反の正当性を認めて貰っている。また、天文22年(1553年)の蜷川家文書には、大内晴英の偏諱や、家督を継承した晴英への礼物に感謝して太刀を下賜した記録が残っている(逆に、前述の通り明は、大内義長を簒奪者としている)。

厳島の戦いで陶晴賢を倒した元就は、「義隆父子を討って八虐を犯した者は、天誅を逃れられない」として非難し、晴賢の陰謀は「弑逆の悪」(新裁軍記)と表現している。しかし、前述の通り隆房の謀反と同調して行動を起こしていることから、これらは陶と戦った毛利の大義名分を記したものと考えられる。

大友氏重臣の戸次鑑連(立花道雪)が後年に事変を振り返り、「思慮を欠いた義隆が、道理を説いている陶隆房より、無道を企てた相良武任を贔屓した」としている(『立花家文書』)。