義隆が陶隆房を寵愛していた頃、馬で五時間もかけて会いに行ったが、隆房が深く眠っていたために和歌を残し帰還したという話がある。

陰徳太平記』などには「又四郎隆景は、容姿甚だ美なりしかば、義隆卿 男色の寵愛浅からずして」との一文に小早川隆景が義隆と衆道関係にあったことが記されているが、同書は文学としての側面が強く信用のおける資料とは言い難い。また隆景・陶隆房の他にも清ノ四郎、安富源内などが義隆の寵愛を受けた人物とされている。

存命中は周辺国武士には畏怖されていたが、箱崎宮を再建したり厳島神社宇佐神宮など多くの寺社を手厚く保護したことから僧侶の評判は高かった。文化人、公家にも「末世道者」と称えられていた。

当時博多祇園山笠の舁(か)き山は12本あったが、義隆が山口の祇園会に6本を分けた為に、博多山笠の舁き山が6本になった。

 

9「月山富田城の戦い」

月山富田城の戦い(がっさんとだじょうのたたかい)は、1542年から1543年1565年から1566年尼子氏の本拠である出雲国月山富田城(現:島根県安来市)を巡って発生した合戦である。

この合戦は、大内義隆毛利氏などの諸勢力を引き連れて攻め込んだ第一次月山富田城の戦いと、大内氏滅亡後に毛利元就が行った第二次月山富田城の戦いに分けることができる。

なお、第二次の合戦により尼子氏は滅亡したが、その後に尼子氏の再興を目指す勢力が起こした戦いについても、併せて本項で記述する。

第一次月山富田城の戦い

背景

天文10年(1541年)に尼子晴久率いる尼子軍は、毛利氏の本拠である吉田郡山城を攻めたものの、大内軍の援軍を得た毛利軍に撃退された(吉田郡山城の戦い)。

この尼子氏による安芸遠征の失敗により、安芸備後国人衆は、尼子氏側だった国人領主たちを含めて、大内氏側に付く者が続出した。さらに、安芸・備後・出雲・石見の主要国人衆から、尼子氏退治を求める連署状が大内氏に出されたことを受け、陶隆房を初めとする武断派は出雲遠征を主張。相良武任冷泉隆豊ら文治派が反対するが、最終的に大内義隆は、出雲出兵に踏み切ることになった。なお、大内氏出陣の少し前となる、天文10年11月には、尼子経久が死去している。

合戦の経過

天文11年1月11日(1542年1月26日)に出雲に向かって大内軍本隊が出陣。大内軍は義隆自らが総大将となり、陶隆房、杉重矩内藤興盛、冷泉隆豊、弘中隆包らが兵を率いていた。

また、義隆の養嗣子大内晴持も併せて出陣する。1月19日に厳島神社で戦勝祈願をしたのち、出雲に向かう。毛利軍も毛利元就、小早川正平益田藤兼ら安芸・周防・石見の国人衆を集めて大内軍に合流した。

4月に出雲に侵入したものの、赤穴城の攻略に6月7日から7月27日までの日数を要し、10月になって三刀屋峰に本陣を構えた。

その後、年を越して月山富田城を望む京羅木山に本陣を移す。天文12年(1543年)3月になって攻防戦が開始されたが、城攻めは難航する。

また、糧道にて尼子軍のゲリラ戦術を受け兵站の補給に苦しむ。そして、4月末には、尼子氏麾下から大内氏に鞍替えして参陣していた三刀屋久扶三沢為清本城常光吉川興経などの国人衆が再び尼子方に寝返った。『陰徳太平記』によると、城を攻めると見せかけて堂々と城門から尼子軍に合流していったと言われる。これにより大内方の劣勢は明白となった。

5月7日、大内軍は撤退にとりかかり、出雲意宇郡出雲浦 へ退いた。だが、尼子軍の追撃は激しく、大内家臣の福島源三郎親弘・右田弥四郎たちが防ぎ戦死している。

このとき、義隆と晴持は別々のルートで周防まで退却を図った。義隆は、宍道湖南岸の陸路を通り、石見路を経由して5月25日に山口に帰還する。しかし、中海から海路で退却しようとした晴持は、船が事故で転覆したため溺死した。

また、毛利軍には殿が命じられていたが、尼子軍の激しい追撃に加えて、土一揆の待ち伏せも受けたため、壊滅的な打撃を受けた。

安芸への撤退を続ける毛利軍であったが、石見の山吹城から繰り出された軍勢の追撃によって、元就と嫡子隆元自害を覚悟するまでに追い詰められたとされる。

この時、毛利家臣渡辺通が元就の甲冑を着て身代わりとなり、僅か7騎で追撃軍を引き連れて奮戦した後に討ち死にした。この犠牲により元就は吉田郡山城への撤退に成功した。

戦後

この遠征は、1年4ヶ月の長期間にも及んだ挙句に大内側の敗戦となり、寵愛していた晴持を失った義隆はこれ以後政治に対する意欲を失ってしまう。

この戦いは大内氏衰退の一因となった一方、尼子氏は晴久のもとで勢力を回復させ、最盛期を創出する。また、大内氏の滅亡後には石見国を巡って毛利氏と尼子氏が熾烈な争いを続けることとなった。

第二次月山富田城の戦い

周防・長門を攻略して大内氏を滅ぼして勢力を拡大した毛利氏は、石見銀山を巡って尼子氏と対立していたが、弘治2年(1556年)の忍原崩れ永禄2年(1559年)の降露坂の戦いでは敗れていた。

しかし、永禄3年(1561年)12月に尼子晴久が亡くなると、嫡男尼子義久が家督を継いだ後に、雲芸和議を経て永禄5年(1562年)には石見銀山を手中に収めることに成功する。

一方の尼子側は、家臣団における不和や雲芸和議による不満の噴出もあって、出雲西部・南部国人衆の多くは毛利側へと離反していた。

白鹿城の戦い

永禄5年(1562年)7月3日、元就は3人の息子と軍勢を率いて吉田郡山城を出陣。途中、九州の大友宗麟豊前の毛利氏領を脅かしたため、毛利隆元は遠征軍から離れてその対応に当たった。

毛利軍は石見路を経由して出雲国へ侵攻、12月には宍道湖北岸に本陣となる洗合(あらわい)(荒隈)城を築いた。