鎗分・太田口の戦い

9月5日、尼子軍の一部が郡山南西にある吉田上村の民家に放火したが、毛利軍は応戦しなかった。

翌6日、早朝の霧に紛れた尼子軍4,500が吉田太郎丸(郡山の南方地域)の町屋敷に放火し、そのまま吉田郡山城に攻撃を仕掛けようとした。しかし毛利軍の激しい抵抗に遭って数十名が討ち取られ、攻撃は失敗する。

9月12日、尼子軍は軍勢を数部隊に分け、再び城下に進出して放火。これに対して毛利方は渡辺通井上元景などが出陣した。元就は、最初に多治比川を渡って突進させた足軽30人程度をすぐに退却させ、尼子勢に敗走兵を追わせて誘引したところで、鎗分(やりわけ)に潜ませた伏兵で襲うよう指示を出していた。

元就の罠に陥った尼子方は、高橋元綱や本城信濃守らを含む数十名が討死する。この戦いは城の南西にある太田口(堀縄手)付近で行われた(鎗分・太田口の戦い)が、同じ日には城の南側正面にあたる広修寺や祇園の縄手でも激戦が繰り広げられている。いずれも尼子軍は撃退されており、風越山の尼子本陣に撤退している。

尼子軍の進出と池の内の戦い

9月23日、尼子軍は本陣を青光山に進出させ、湯原宗綱湯惟宗らは青山、高尾久友黒正久澄吉川興経は光井口に陣取った。

軍記物などでは、郡山の背後にある甲山(かぶとやま)に尼子が陣取ることを避けるため、間者を使って城の南側(正面)に移るよう工作したことになっている。

いずれにせよ、元就はこの期を逃さずに、手薄となった風越山の陣を急襲し、焼き払わせた。

9月26日、尼子軍の湯原宗綱は1,500の兵を率いて南方の坂・豊島方面(旧向原町)に進出し、毛利方の後詰めとして駐留していた小早川興景の陣を攻撃した。しかし、小早川勢は大内軍先鋒・杉隆相勢と共に反撃。吉田郡山城からも粟屋元良が出撃して湯原勢を挟撃した。池の内方面(旧甲田町)まで及んだ戦いで宗綱勢は壊滅、日の沈む頃には深田に馬を乗り入れて進退に窮した宗綱も討死している。

青山土取場の戦い

10月11日、尼子誠久らは新宮党など1万を動員し、城下に火を放ちながら徐々に吉田郡山城に迫ろうとした。

これを察知した毛利元就は積極的な攻勢を加える指示を下す。家臣は兵数の不利を訴えたが、元就は不意討ちなら必ず勝てると唱えて軍勢を三手に分けた。

第一軍は渡辺通国司元相児玉就光に兵500を預けて、城の西方である大通院谷から出た先で伏兵とした。第二軍は桂元澄粟屋元真などが率いる200人で、こちらも伏兵として青山に近い場所まで密かに南進させた。

そして第三軍1,000余は、元就自身が率いて正面から尼子軍を引きつける役割であった。

元就率いる本隊は、赤川元保の手勢400余を先鋒に、尼子軍の三沢為幸亀井秀綱米原綱寛らと激戦を展開した。

そして、数刻に及ぶ戦いで両軍の疲労が色濃くなった頃を見て、伏兵の渡辺・国司・児玉勢が左翼から、桂・粟屋勢が右翼から突撃したため、尼子軍は大混乱となって壊走。毛利軍の追撃は、青山の麓にある尼子本陣の外柵を破壊して内部に侵入するまでに至った。青山土取場の戦いと呼ばれるこの戦いにより、尼子軍は三沢為幸ら500人が討死する大きな被害を受けた。

大内氏の救援

11月9日、尼子氏の支援によって佐東銀山城に戻っていた武田信実が、毛利軍の背後を突こうとするが、般若坂にて国司元相勢によって撃退される。

その後も、随所で毛利軍と尼子軍の小競り合いはあったものの、戦況に影響を与えるような合戦は発生しなかった。

一方、元就より救援を求められていた大内義隆であったが、通説によれば暫く静観を続けており、救援軍を出陣させたのは11月26日とも言われている[2]。しかし、実際には前述の通り、頭崎城攻めのため既に防府に出陣しており、尼子軍の侵攻に対して杉隆相を早々に毛利への後詰めとしている。

また、義隆自身も岩国に本陣を移し、大内軍主力を率いる陶隆房は9月4日に厳島神社にて戦勝祈願を行った後、翌日には安芸海田(広島市)に上陸した。

隆房は、まず杉隆相が抜けた頭崎城攻めの陣営に加わり、その後に、内藤興盛らと共に10,000の軍勢を率いて吉田郡山城救援に向かった。

これに対して、武田信実・牛尾幸清以下3,000余りが陶軍を迎え撃ち、大内軍援兵の合流を遅延させている。

12月3日、吉田郡山城の東側にある山田中山(旧甲田町)に到着。両軍を見下ろせる住吉山に旗印を立てて陣太鼓を打ち鳴らし、籠城する毛利の将兵を鼓舞したとされる。

元就は陶隆房に謝意を述べて丁重にもてなし、年明けを待って尼子軍に総攻撃をかけることで一致した。

宮崎長尾の戦い

12月11日、宍戸勢を含めた毛利軍は、吉田郡山城の西に位置する宮崎長尾(旧吉田町相合)にある尼子方の陣を襲撃。

毛利軍は、年を越した天文10年(1541年)1月3日にも相合口の尼子軍を襲い、参戦した小早川興景勢から20名ほどの負傷者を出しつつも、尼子兵10数名を討ち取った。

6日にも再び尼子軍の陣地に迫って火を放つなどしており、既に毛利・大内方の優勢は明らかであった。1月11日、大内軍は山田中山の陣を撤去して吉田郡山城から西に尾根伝いである天神山に本陣を移し、青光山の尼子陣営の真正面に対峙した。

尼子軍は大内軍を牽制しようとしたが、大内軍の陣替えは阻止できなかった。

翌日、元就は天神山の大内本陣へ児玉就忠を使者として使わし、宮崎長尾に陣取る高尾久友・黒正久澄・吉川興経に対して総攻撃をかける計画を伝える。

そして、毛利軍の動きに対抗して尼子軍主力が吉田郡山城に攻め寄せる恐れがあったため、尼子本隊を大内軍で牽制して欲しいと隆房に要請。

これに対して隆房は、末富志摩守を吉田郡山城に派遣して了承の旨を伝えた。志摩守は元就と軍議をした後に帰陣している。

毛利軍の攻撃

1月13日の早朝、城外の小早川興景・宍戸元源らと呼応した毛利軍総勢3,000が、ついに宮崎長尾の尼子陣に攻撃を開始する。この時、元就次男の少輔次郎(後の吉川元春)が初陣を果たしている。

毛利方はほぼ全軍を投入する戦いであったため、百姓や女子供を守備兵に見せかけて城の随所に立たせ、守りが堅固であるように見せかけた。

尼子方の先鋒であった高尾隊2,000は必死に防戦するが、久友は討ち死にして軍勢は敗走。続いて、第二陣の黒正隊1,500の兵も壊滅して久澄は逃亡した。