5「家臣団の粛清と高橋氏一族討伐」

当主になった元就は連歌の席で「毛利の家 わしのはを次ぐ 脇柱(あくまで自分は分家の身であるから、と謙遜の意味)」という歌を詠んでいる。

元就の継承に不満を持った坂氏渡辺氏らの有力家臣団の一部が、尼子経久の指示を受けた尼子氏重臣・亀井秀綱支援の下、元就の異母弟・相合元綱を擁して対抗したが、元就は執政・志道広良らの支援を得て元綱一派を粛清・自刃させるなどして家臣団の統率をはかった。

元綱粛清後、元綱の子は男子であったが助けられ、後に備後の敷名家を与えられている。元就自身が書いたとされる家系図にはこの元綱の子だけでなく三人の孫まで書かれている。また、僧侶になっていた末弟(元就・元綱の異母弟)の就心に頼みこんで還俗させ、就勝の名を与え、北氏の跡を継がせて側に置いた。

なお、この事件はこれで収まらず、謀反を起こした坂氏の一族で長老格であった桂広澄は事件に直接関係はなかったが、元就が止めるのも聞かず、一族の責任を取って自害してしまった。

元就の命を聞かずに勝手に自害したことで桂一族では粛清を受けるものと思い、桂元澄を中心に一族で桂城に籠った。

なお、この事は毛利家中に広く伝わったらしく、後に防芸引分の際に隆元が元澄に、「元就にあの時命を助けられたのだから今こそその恩を返すべく元就が陶氏に加勢しに行くのを引きとめてほしい」と要請している。また、この時謀反を起こし粛清された渡辺勝の息子、通は乳母に助けられ備後の山内家へ逃げている。

勢力拡大

家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と関係を断ち大内義興の傘下となる立場を明確にした。そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光高橋氏一族を討伐。高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れた。天文4年(1535年)には、隣国備後多賀山通続を攻め、降伏させた。

高橋 興光(たかはし おきみつ)は、戦国時代武将安芸国石見国国人である石見高橋氏の当主。高橋久光の次男である高橋弘厚の子とされるが、高橋氏の系図については異説も多く、以下の記述も確定的なものではない。

文亀3年(1503年)、高橋弘厚の子として生まれたとされる。

永正12年(1515年)、高橋氏の当主であった伯父・高橋元光の戦死により、祖父・久光の後見を受けて家督を相続する。

父に倣い、大内義興から偏諱を貰って興光と名乗ったが、これは安芸国人一揆の結束を弱め、大内氏による安芸への影響力が再び強まる一因となった。

近隣の国人である毛利氏の当主・毛利興元に叔母(伯母)が嫁いで嫡男の毛利幸松丸が生まれており、毛利氏とは友好関係にあった。

永正13年(1516年)に毛利興元が死去し、幸松丸の家督相続を機に外戚として毛利氏に干渉したが、幸松丸の外祖父として権力を振るった久光は永正18年(1521年)に戦死した。

毛利幸松丸を後見し、大永3年(1523年7月15日の幸松丸死去によって毛利氏の家督を相続した毛利元就は、次第に高橋氏と敵対するようになり、享禄元年(1528年12月21日、父・弘厚[1]が在城した安芸国高宮郡松尾城が大内方の毛利元就、和智豊郷弘中隆包の軍に攻撃され、翌享禄2年(1529年5月2日に落城した。

興光は石見国邑智郡阿須那の藤根城に籠城し、尼子経久の三男である塩冶興久に援兵を要請したが、毛利元就は興光の叔父である高橋盛光をそそのかして興光を自刃に追い込み、それに乗じて高橋氏の領地を併呑した。

これにより石見高橋氏は滅亡した。なお、盛光も主君殺しを理由に直後に元就に殺害されている。

なお、元光や久光の戦死についても、興光の最期と類似したエピソードが伝わっており、どこかで伝承に混乱があったと推察される。ちなみに、同じく元就に滅ぼされた本城常光は高橋氏の一族だという。

多賀山 通続(たかのやま みちつぐ)は、戦国時代武将多賀山氏備後山内氏の庶流で、備後国恵蘇郡高野蔀山城を本拠とした国人。はじめ尼子氏大内氏に属し、後に毛利氏に属する。

波乱の幼少期

永正3年(1506年)、多賀山通広の次男として生まれたが、永正10年(1513年)に母と死別する。

永正11年(1514年9月9日、叔父の花栗弥兵衛が、父の通広と兄の又四郎を殺害し、蔀山城を乗っ取った。

通続は乳母に負われて難を逃れ、通続の叔母が出雲国飯石郡懸合の多賀殿の女房だった縁から、懸合に落ち延びた。なお、この時に多賀山氏の系図は失われたため、後年の永禄2年(1559年)12月に通続は曽祖父以来の系図を書き記すこととなる。

しかし、永正12年(1515年1月20日檜木谷にて多賀山氏家臣の井上八郎右衛門尉が花栗弥兵衛と刺し違えて討ち果たしたため、通続は帰還して多賀山家の家督を相続した。

後に通続は、井上八郎右衛門尉は多賀山家にとって大功ある者であるとの賞賛を書き残している。

尼子氏と大内氏

大永6年(1526年)、備後国守護山名誠豊の下知によって尼子氏から離反したため、以後尼子経久と戦うこととなり、享禄元年(1528年9月9日には尼子軍が居城の蔀山城を包囲した。

通続らはよく防戦したが、享禄2年(1529年7月19日から7月20日にかけて、惣固屋と呼ばれる仮設小屋で戦っていた多賀山氏の兵たちの兵粮が尽き、味方の陣に帰還する者もいたが、敵陣の方へ落ちて行った者は皆討ち取られてしまった。

この時通続のもとに残っていたのは、江木源二郎江木善左衛門尉白根若狭白根雅楽助白根豊後白根九郎左衛門尉水間伊賀大嶋河内湯浅肥前田邊四郎左衛門尉田邊五郎兵衛であり、さらに3日間持ちこたえたものの包囲を脱すると決めた。その時にわかに大風雨となり、それに乗じて囲みを突破することに成功。

しかし、尼子軍の追撃は激しく、江木善左衛門尉、白根雅楽助、白根豊後、水間伊賀、田邊四郎左衛門尉が追手を防ぎ戦死した。