2「毛利 元就の出自」(もうり もとなり)は、戦国時代の武将。
安芸(現在の広島県西部)吉田荘の国人領主毛利弘元の次男。毛利氏の本姓は大江氏で大江広元の四男 毛利季光を祖とする。
家紋は一文字三星紋。用意周到かつ合理的な策略および危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く策略家として知られており、家督を継いだ時点では小規模な国人領主に過ぎなかった毛利家を、一代で山陽・山陰10か国を領有する戦国大名の雄にまで成長させた(しかも、完全な老境に入ってから版図を数倍に拡大させている)。
子孫は長州藩の藩主となったことから、同藩の始祖としても位置づけられる人物である。
明応6年(1497年)3月14日、安芸の国人領主毛利弘元と正室の福原氏との間に次男として誕生。幼名は松寿丸。
出生地は母の実家の鈴尾城(福原城)と言われ、現在は毛利元就誕生の石碑が残っている。
明応9年(1500年)に幕府と大内氏の勢力争いに巻き込まれた父の弘元は隠居を決意。嫡男の毛利興元に家督を譲ると、松寿丸は父に連れられて多治比猿掛城に移り住む。
翌文亀元年(1501年)には実母が死去し、松寿丸10歳の永正3年(1506年)に、父・弘元が酒毒が原因で死去。松寿丸はそのまま多治比猿掛城に住むが、家臣の井上元盛によって所領を横領され、城から追い出されてしまう。
この困窮した生活を支えたのが養母であった杉大方である。杉大方が松寿丸に与えた影響は大きく、後年半生を振り返った元就は「まだ若かったのに大方様は自分のために留まって育ててくれた。
私は大方様にすがるように生きていた。」「10歳の頃に大方様が旅の御坊様から話を聞いて素晴らしかったので私も連れて一緒に2人で話を聞き、それから毎日欠かさずに太陽を拝んでいるのだ。」と養母の杉大方について書き残している。
永正8年(1511年)杉大方は、京都にいた興元に使いを出して松寿丸の元服について相談し、兄の許可をもらって松寿丸は元服。多治比(丹比)元就を名乗って分家を立て、多治比殿と呼ばれるようになった。
毛利 弘元(もうり ひろもと)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。安芸国の国人領主・毛利氏当主。吉田郡山城主。父は毛利豊元。子に毛利興元、毛利元就、相合元綱、北就勝。
応仁2年(1468年)、安芸国の国人である毛利氏の当主・毛利豊元の長男として生まれる。毛利氏は周防国・長門国の守護大名・大内氏の勢力下である安芸国人領主の一人であった。
文明8年(1476年)、父・豊元が死去し家督を相続する。文明11年(1479年)に大内政弘の加冠を受けて元服し、「弘」の偏諱を与えられて「弘元」と名乗る。
明応4年(1495年)に大内政弘が死去すると、後を継いだ大内義興に嫡男・興元と共に従った。
だが、その立場は管領・細川氏と大内氏の間で揺れ、さらに明応8年(1499年)には明応の政変で失脚した前将軍・足利義稙を保護した大内氏と、将軍・足利義澄を擁する室町幕府との間で揺れる。
対立の激化した大内氏と細川氏の両者からの協力要請から逃れる為、明応9年(1500年)に嫡男・興元に家督を譲って隠居し、次男の元就らを連れて安芸国多治比の猿掛城へ移り住んだ。
隠居先を猿掛城としたのは、吉田郡山城の西の拠点を確保し、北方に位置する国人・石見高橋氏に備えるためとも考えられている。
しかし、その心労と酒毒により、永正3年(1506年)1月21日に死去した[5]。享年39。墓所は広島県安芸高田市の悦叟院。
多治比猿掛城(たじひさるがけじょう)は、安芸国(現在の広島県安芸高田市)にあった日本の城。国の史跡に指定されている。
築城年は不明。吉田郡山城の支城として造られた山城。1500年(明応9年)に家督を毛利興元に譲った毛利弘元が隠居するために築城したという説も有力。国の史跡。
歴史・沿革
1500年に毛利氏の当主毛利弘元は、家督を嫡男の毛利興元に譲り、次男の松寿丸(後の毛利元就)らを連れてこの多治比猿掛城に入城する。
1506年(永正3年)に弘元が没すると、幼少の松寿丸が城主となる。松寿丸はこの城で成長し、元服後、多治比元就と名乗り、分家の多治比毛利氏として活動する(この時期元就は「多治比殿」と呼ばれている)。
1523年(大永3年)に元就が宗家を継ぎ、多治比猿掛城は城主不在となる。その後についての詳細は不明だが、その重要性は変わらず、戦国末期まで維持されたと思われる。
実際、1563年(永禄6年)に毛利隆元が元就が遠征している出雲へ向かう途中で、多治比猿掛城に1泊。その際に息子の毛利輝元が来城し、面会している(その後、隆元は佐々部で急死)。廃城年は不明。
構造
城跡は多くの郭が残り、比高120mの山頂の物見丸、丘陵先端の中心部郭群、斜面中腹の寺屋敷郭群、平野部の出丸に分けられる。
出丸は平時の生活を重視した館的な区画であり、中心部郭群や物見丸が戦時の避難所となる役割だったと思われる[