家康に従軍した板坂卜斎は陥落した佐和山城に金銀が少しもなく、三成は殆んど蓄えを持っていなかったと記している(『慶長年中卜斎記』、寛永年間成立)。

三成が京都の町を引廻されている最中に水が飲みたくなったので、警護の者に伝えたところ、水がなかったので干柿を差出された。三成は「痰の毒であるから食べない」と言って断った。「間もなく首を刎ねられる人が毒を断つのはおかしい」と笑われたが、三成は「そなた達小物には分からないだろうが、大義を思う者は、首をはねられる瞬間まで命を大事にするものだ、それは何とかして本望を達したいと思うから」であると答えた。

(『明良洪範』 享保以降成立)。なお、横浜一庵から柿100個が送られた際の礼状に「拙者好物御存知候」と書いていることや、他にも三成への柿の贈答が記録されたことから、三成の好物が柿だったことは広く世間に知られており、干柿の逸話とも関連がある可能性がある。

三成は関ヶ原の戦いの数日後に捕縛されて大津城で曝された。この時、福島正則が馬上から「汝は無益の乱を起こして、いまのその有様は何事であるか」と大声で叱咤した。

三成は毅然として「武運拙くして汝を生捕ってこのようにすることができなかったのを残念に思う」と言い放った(『武功雑記』、寛文年間成立)。

関ヶ原の戦いの直前、三成は増田長盛と密談した。三成は「五畿内の浪人を集めて兵力とし、家康に決戦を挑もう」と述べ、長盛は「いや、時節を待とう」と言った。

すると三成は苦笑いし、「生前の太閤殿下は貴殿と拙者に100万石を与えると言われたが、我々は分不相応ですと断った。

思えばあの時、100万石を受けていれば今になって兵力の心配などする必要もないのに」と述べて長盛のもとを去ったという(多賀谷英珍遺老物語』)。

以下の逸話は明和7年(1770年)成立の『常山紀談』を出典とする。

石田家中で行われた密議での話。三成に対して家臣の島左近は「豊臣家のために決起するのであれば即断すべきであり猶予は不要でした。

しかし好機は逸してしまい、家康に味方する者も多く、当家の存亡は予測が出来ません。ここは筋を曲げてでも今まで疎遠であった諸大名と遺恨なきよう親交し、時を待つのが策ではないか」と進言した。

これに対して三成は「一時の成功よりも、事が起きた後いかに平穏にさせるのかを考えるべきである」と受け入れなかった。

三成が来客のため場を離れると三成家臣の樫原彦右衛門は左近に向かって「あなたの言うことがもっともである。

松永久秀明智光秀は悪人であったが決断力は人並みではなかった」と言った。その後、関ヶ原の戦いの前の事。家康は島左近の動静を探るべく同じ大和国出身の柳生宗矩を左近の許に送り込んだ。二人の話が天下の趨勢に及ぶと左近はその密議の事を思い出して「今は松永や明智のような決断力と知謀のある人物がいないので何も起こらないでしょう」と語った。

家康の会津征伐に従軍しようとしていた大谷吉継は三成から佐和山城に招かれた。三成は「豊臣のために上杉景勝と打倒家康の策を練っていた。上杉が立った以上これを見殺しには出来ない」として挙兵の決意を語った。

吉継は「ならば秀頼公に命を捧げよう。しかし大事にあたって気掛かりが二つある。まず世の人は三成は無礼者であると陰口を叩く一方、家康は下々の者にまで礼をもって接するので人望がある。

次に石田殿には智はあっても勇足りないと見える。智勇二つを持ち合わせねば事は成し遂げられないだろう。

毛利も宇喜多も一時の味方であって頼りならない。家康の関東への帰路で夜討ちをかけておけば勝利は疑い無かったが、既に手遅れだ。悔いても益は無いので、このうえは秀頼公ために戦う以外道は無い」と三成を諫めつつ挙兵に同意した。

家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今良くあることで少しも恥ではない」といった。

三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。また家康は処刑前の三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人が破れた衣服ままである事を聞き、「将たるものに恥辱を与える行為は自分の恥である。」として小袖を送り届けた。三成は小袖を見て「誰からのものか」と聞き、「江戸の上様(家康)からだ」と言われると、「それは誰だ」と聞き返した。「徳川殿だ」と言われると「なぜ徳川殿を尊ぶ必要があるのか」と礼もいわずに嘲笑った。

  

 

11「三成と淀殿及び高台院

一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家は近江の土豪であり、京極氏に代々仕官していた国人である。間接して、浅井氏にも仕えていた(浅井氏が京極氏を保護していた)こととなるが、基本的には、当時の浅井氏と京極氏は敵対関係にあったため(浅井氏は、京極氏への下剋上で当時、台頭していた)、淀殿は「仇敵の娘」ともいえる。

また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説がある。淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということ、秀頼は文禄2年8月3日(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていたことから三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。

その一方で白川亨は、三成が秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説を唱えている。その論拠として白川は三成の三女・辰姫は高台院の養女となっている(『杉山家由緒書』『岡家由緒書』)。

高台院の側近の筆頭である孝蔵主は三成の縁戚で、関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っている。

淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいない

ことなどを挙げている(詳しくは高台院を参照)[4