三成は自身の書状で特に親しかった武将として小西行長と寺沢広高を挙げている他、他の文書などから真田信幸斎村政広と親密な交際を持っていたことが確認できる。

ある年の10月、毛利輝元から季節外れの桃が秀吉への献上品として届けられた。三成は毛利家の重臣を呼び、「時節外れの桃とはいえ中々見事でござる。しかし時節外れゆえ、公(秀吉)が召し上がって何かあれば一大事でござるし、それでは毛利家の聞こえも悪くなりましょう。

ゆえに時節の物を献上なされよ」と突き返したという。心ある人は「もっともな事であり、三成のような才人こそ武人の多い豊臣家で公に最も信任されているのだ」と評したが、大半の人は秀吉の権勢を笠に着て横柄だと評したという(小早川能久翁物語』)。

小田原征伐の際、三成は忍城攻略に参加する。『関八州古戦録』(1726年成立)等の二次史料には、忍城が要害にあり、城方の兵糧の備蓄も十分である事を理由に、三成が水攻めを発案し堤防を築くが、これが豪雨による増水によって決壊したため作戦が失敗に終わったと記されている。

これは三成の戦下手の根拠とされる逸話である。しかし天正18年7月3日付浅野長政宛秀吉朱印状には秀吉自身が水攻めを指示したことが明記されており、また作戦実行にあたっては浅野長政、木村重茲らの指示を仰ぐなど、三成は秀吉が立案した作戦の下、現地での作業を指揮する立場でしかなかったようである。

『黒田家譜』(1688年成立)によると文禄の役の時、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三名が軍議のため黒田孝高と浅野長吉(長政)を訪ねたが、両名は囲碁に興じて三奉行と速やかに対面しようとしなかった。

これを恨んだ三成が秀吉に讒言したため朝鮮より帰国した孝高は秀吉の怒りを買い疎んじられるようになった、というものである。

しかし、文禄2年8月に秀吉が黒田長政に送った朱印状によれば、孝高が成敗直前に至るほどの怒りを買ったことは事実であるものの、原因は讒言ではなく秀吉の許可を得ずに帰国した孝高自身にあったことが判明している。

文禄の役出陣中に三成らの讒言によって帰国蟄居を命じられた加藤清正が、慶長元年(1596年)閏7月に起きた慶長伏見地震の際、伏見城の秀吉のもとにいち早く駆け付け、これに感激した秀吉により処罰を解かれたとする、いわゆる「地震加藤」の逸話は、『清正記』『清正高麗陣覚書』といった江戸時代成立の清正記系諸本を出典としており、清正自身の記した書状を含め当時の一次史料にこれを裏付けるものは無い。

清正が地震後の7月15日に発給した書状に伏見の清正邸が建築中であったことと、京から胡麻を取り寄せるようにとの指示が記されていることから、地震発生時清正は京にも伏見にも居なかったと考えられる。

慶長3年(1598年)に行われた蔚山城の戦いでの小早川秀秋の行動が軽挙であるとして三成が秀吉に讒言した。

そのため秀秋は越前国への転封を命じられるも徳川家康の執り成しによって免れたとする説がある。ただし出典は寛文12年(1672年)成立の『朝鮮物語』である。実際に小早川勢を率いて蔚山の戦いに参加したのは秀秋ではなく秀秋家臣の山口宗永であったうえに、越前転封も実現していることから史実とは考えられない。

関ヶ原の戦いの際、会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取ろうとしたが、細川忠興の妻・玉子に自害され、加藤清正、黒田長政らの一部大名妻子の逃亡を許すなど策は不完全なものとなった。

また、この処置が結果的に東軍諸大名の敵対心を煽ったとする評価もある。しかし大名妻子に対する人質策は秀吉生存時の天正年間後期より政権の政策として用意されてきたものであって、三成個人の発案ではない。

また三成は慶長5年9月12日付増田長盛宛三成書状(『愛知県史資料編13』1019号文書)において大坂における人質の扱いが寛大であることに不満を漏らすと共に、人質を安芸国宮島に移すことを提案しており、人質の処遇について一方的に命令出来る立場では無かったようである。

 

10「三成、関ヶ原で敗走」

関ヶ原の戦いで敗走した三成は、自身の領地である近江国の古橋村に身を潜めた。初めは三珠院を頼ったが、その時、住職の善説より「何を所望か」と問われて、「家康の首が欲しい」と答え、善説を呆れかつ恐れさせたとされる。その後、与次郎太夫という百姓の招きで、山中の岩窟に身を隠した。

与次郎はこの時、徳川軍による咎めの責任を一身に引き受けるために妻を離縁し、刑死を覚悟で三成を介抱した。

三成はこの義侠心に感じ入り、与次郎に咎めが及ばないよう、与次郎を説得して自分の居場所を徳川軍へ告げさせた。

徳川軍を代表して三成の捜索に当たっていた田中吉政は、近辺の村々に対し、三成を生け捕りにした場合にはその村の年貢を永久に免除する、生け捕りにせず殺した場合にはその者に賞金百両を与える。

逆に三成を匿った場合には当事者のみならずその親族および村人全員に至るまで処刑すると触れを出していたが、最終的には与次郎が三成の説得に従って自首したため、村は虐殺を免れている。

捕縛された際の三成はの振りをして身には襤褸をまとい、兵糧米を少し持ち、破れ笠にて顔を隠していたが、田中の兵でかつて三成の顔を知っている者がおり看破された(『田中系図』)。

この時、与次郎が死を覚悟で三成を匿ったのは、かつて古橋村が飢饉に襲われた際、三成が村人たちを救うために米百石を分け与えたことがあり、与次郎はそのことに深く恩義を感じていたためとされる。

しかし他説では、三成が村人達に対し、「私がこのように逃れてきたのは、再び家康と一戦を交え、天下を統一する所存であるからだ。天下統一の暁には、古橋から湖(琵琶湖)までの間を大きな平野となし、道は全部石畳にする」と言い、村人達はこの言葉に惹かれて三成を匿った。

しかし、隣村の出身で与次郎太夫の養子であった者が裏切って徳川軍に密告したため三成は捕らえられたとする。これ以降、古橋村では他村から養子を取らない慣習ができたという。