9月29日、京都に護送され、奥平信昌京都所司代)の監視下に置かれた。

10月1日、家康の命により六条河原斬首された。享年41。辞世は「筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり」。

首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園沢庵宗彭に引き取られ、京都大徳寺の三玄院に葬られた。

豊臣奉行としての三成

三成は秀吉直下の奉行として様々な政策・実務に携わっている。三成自身の政治的影響力は主に各地に赴いての検地や、秀吉(豊臣政権)-地方大名間の外交交渉、大名内部で起きた諸問題への介入などを通じて、秀吉の国内統一戦が始まって以降徐々に高まっていったものと考えられる。その影響力を伺わせる発言がいくつか残っている。

毛利輝元:「彼仁、当時、肝心の人にて、なかなか申すに及ばず。大かた心得にて候(大いに気を使う)」

島津義弘:「江州佐和山の城主・石田治部少輔、太閤公の股肱の臣として、その勢威、比肩の人なし」

木食応其:「治少(治部少輔)、御奉行のその随一なる顔にて候つる。少しもそむけ候えば、たちまち身のさわりをなす仁にて候」

五奉行に限らず地方大名との様々な交渉を担当した豊臣秀長富田一白宮部継潤、小西行長、黒田孝高らは単に秀吉の意思を伝達するだけではなく、相手の依頼に応じて便宜を図ることもあり、その結果秀吉の当初の決定に修正が加えられることもあった。

 三成に関しては毛利氏・島津氏が主な交渉相手であり、両家との交渉過程で築かれた関係が後の関ヶ原の戦いにおける連携に繋がることとなる。

ただし、政策の基本的部分は秀吉の意志によって決定され、また実務は他の奉行衆との連携・分担によって進められており、政権内部において三成一人が突出した権力を持っていたわけでは無い。

浅野長政は秀次事件で失脚するまで東国諸大名に対して三成を上回る大きな影響力を有し、朝廷や京周辺の寺社との交渉は主に前田玄以が務めていたように三成の職権と影響力には限りがあった。

また五奉行による連署書状の署名順は一部の例外を除き前田玄以→浅野長政→増田長盛・三成→長束正家となっており、三成は五奉行内の序列においては三番手もしくは四番手であった。

秀吉の最晩年期になると慶長3年(1598年)8月5日の秀吉遺言書や、同時期に奉行衆と家康及び他の大老との間で交わされた起請文の条項によって奉行の政治的権限は五大老、なかでも家康の影響力を抑止する方向で強化されてゆく。これに対抗する家康と、現体制を保持しようとする奉行衆との対立関係が秀吉死後の政治抗争を招いたものと考えられる。

家紋

定紋は定かではなく、「大一大万大吉」、または「大吉大一大万」が足軽たちに貸し出していた甲冑の胴や石田三成画像のに描かれている。石田氏としては九曜紋や桔梗紋の使用がある。

「大一大万大吉」紋は文字の配置や書体は不明であるが、鎌倉時代の武将、石田次郎為久源義仲を射落とした武将)も使」。

三成は多くのエピソードを持つ武将であり、それが三成の人物像形成に大きな影響を与えている。

ただし他の戦国武将同様それら「逸話」の多くは本人死後の江戸時代に記された書物(二次史料)にのみ載せられたものがほとんどであり、安易に歴史的事実として鵜呑みには出来ない。

特に出世のため他人を陥れる器の小さい野心家として描かれた逸話が多いが、三成が江戸幕府の治世下において、幕府を築いた神君家康と多くが加増された東軍諸大名に敵対した仇役という立場にあった点は注意を要する。

近代に入ると渡辺世祐による『稿本石田三成』の刊行など、実証史学に基づいた奸臣三成説の見直しを中心に正確な三成像を探る研究が進められるようになった。

近江国のある寺院に、鷹狩りの帰りにのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、寺小姓に茶を所望した際、寺小姓は最初に大きめの茶碗にぬるめの茶を、次に一杯目よりやや小さい茶碗にやや熱めの茶を、最後に小振りの茶碗に熱い茶を出した。まずぬるめの茶で喉の渇きを鎮めさせ、後の熱い茶を充分味わわせようとする寺小姓の細やかな心遣いに感服した秀吉は彼を家臣とした。それが後の石田三成である、という逸話がある。これが俗に「三杯の茶(三献茶)」と呼ばれる逸話である。この寺院については、伊吹山観音寺(滋賀県米原市)という説と伊香郡古橋村(滋賀県長浜市木之本町)の法華寺三珠院もしくは飯福寺とされている。前者は石田家の本拠であった石田村に近く三成も庇護を与えていたこと、後者は三成の母方の岩田家の本拠である杉野村に近く何よりも関ヶ原の合戦で敗れた三成が落ち延びた地であることから、いずれも三成と縁が深かったと考えられる。ただし、この逸話が載せられている史料が江戸時代のもの(正徳6年(1716年)成立の『武将感状記』など)であること、また三成の息子が記した寿聖院『霊牌日鑑』では三成が秀吉に仕えたのは18歳の時に姫路においてと記されていること等から、後世の創作であるとする説もある。

三成を「かずしげ」と呼んだとする説が『甲子夜話』などに載せられているが、三成の自筆仮名消息が現存しない上、三成の若い頃には「三也」と書かれた署名が存在していること(ただし、これは初名であるとする考えと「成」と「也」を併用していたとする考えがある)、三成から一字を与えられた相馬三胤が関ヶ原の戦い後に「蜜胤」と改名していることから、「蜜」「也」と同音である「みつなり」の読み方で正しいとみられている。

秀吉が開いた茶会において、一口ずつ飲み次へ茶碗を回す回し飲みがされた。らい病を患っていた大谷吉継は飲む振りのみで茶碗を回そうとしたが、顔から出たが茶に落ちてしまった。以降の諸大名は茶に口を付けるのを嫌がり飲む振りだけで茶碗を回していったが、三成は躊躇わず茶を飲み干した。それ以降二人の間には厚い友誼が結ばれたという。

ただし本郷和人によると、この逸話の典拠は不明で、江戸時代に遡ることが難しく、明治時代のジャーナリストであった福本日南が明治44年(1911年)に刊行した『英雄論』では、三成ではなく秀吉が吉継の膿が落ちた茶を飲んだ話として記載されている。本郷は「これがぼくが知っているものとしては一番古い。もし何かソースをご存じの方、ぜひご教示下さい。」と述べている。