西軍の死者約8千人を残して、戦闘は午の刻(午前12時ごろ)に終了。南宮山方面の西軍諸隊は戦闘を行わず、吉川隊は家康に内通していたため動かなかった。東軍は翌16日に三成の居城佐和山城を攻める。

『関ヶ原軍記大成』

宇喜多隊は石原峠を背後に南東の方角に向け山の尾根の先。西軍側から見てその右に戸田・平塚ら。さらにその右、松尾山の麓に大谷・朽木・小川・脇坂・赤座直保ら。

松尾山に小早川。石田隊は小関山に本陣を置き、島左近・舞兵庫・蒲生頼郷ら先手は小池村の前に柵を立て陣を敷く。毛利・宍戸元継・長宗我部・鍋島勝茂らは栗原山。吉川・福原広俊・長束・安国寺は南宮山。宇喜多隊の左に小西・島津・織田信高。

先陣の福島隊は宇喜多隊へ向かい、井伊・松平隊は福島隊を出し抜いて島津隊と交戦。石田隊には細川・黒田・加藤・田中・生駒一正・竹中重門の各隊が殺到し大谷隊には織田有楽斎長孝父子・藤堂隊が向かう。

辰の時に始まった戦闘は巳午(10~12時)になっても勝敗が決しなかった。 黒田長政の手引きで裏切る手筈であった小早川隊が動かないのを不審に思った家康は様子見のため小早川隊の陣に向け銃撃を行うが、それでも変化は表れない。しかし藤堂高虎に内通していた脇坂とともに小川・朽木・赤座の各隊が大谷隊に攻めかかると小早川隊もこれに続く。

吉継は切腹、平塚・戸田は討ち死し、宇喜多隊は敗走。石田隊は大谷隊を突破した織田・藤堂隊をも相手にしてしばらく持ちこたえるが蒲生以外諸士が討ち死にし伊吹山方面へ敗走。

西軍全体の潰走で退路を断たれた島津隊は敵中突破を試み、豊久を失い、わずか50名ばかりに兵力を減じながらも戦場を脱出。

井伊直政は撤退中の島津隊の銃撃を受け負傷落馬する。毛利秀元は長束正家からの出陣要請に応えようとしたものの、毛利勢先鋒の吉川広家が家康に内通して動かなかったため戦闘に参加出来ず、勝敗が決すると上方へ向け戦場を離脱。西軍の戦死者は約32600名で、戦闘終了は未の刻(午後2時ごろ)。

15日夜長束・安国寺・長宗我部・鍋島の各隊も戦わずして山を下り始め、翌16日未明には撤収完了。16日より佐和山攻め。

 

以上のように午前中に戦闘が始まり小早川らの裏切り以降西軍が崩壊するという大筋は共通しているが、そのほか細部おいては違いが見られる。

また合戦当日にまつわる逸話として、福島正則と井伊直政の先陣争い、家康による小早川秀秋の陣への銃撃、島津隊の敵中突破などがよく知られるが、それらも史料によって内容が異なる。

福島正則と井伊直政の先陣争いについて「#福島正則と井伊直政の先陣争い」へ。

家康による秀秋への銃撃については「#小早川秀秋の陣に対する家康の銃撃」へ。

主な両軍の大名、下表内の兵力数は主に『日本戦史関ヶ原役』に拠る。『日本戦史関ヶ原役』は東西両軍の兵力の実数は不明であるとしたうえで、石高100石あたり3人で算出した動員可能兵力の推測値を載せている。

(石高の隣、○印は関ヶ原に布陣した大名、●は寝返った大名、▲は布陣のみに終った大名)

この西軍の結成に関して三成がどのような役割を果たしたのかについては、研究者によって評価が別れる。

従来の説は単独で決起した三成が諸大名を引き込んだとするものであるが、挙兵に到るまでの三成の詳細な動向は一次史料では不明であり、また三成を西軍結成の首謀者とする史料は江戸時代成立の二次史料が多い点が指摘されている。

 また、家康が会津征伐に向かう際に、三成に対して佐和山城を宿所として借りようとして拒絶されたとして、これを挙兵と関連づける考えもあるが、単に家康に会津征伐を再考させるためのものであった可能性が高い。

『常山紀談』には三成が挙兵にあたって、大谷吉継を味方に引き入れるため佐和山に招いた時の逸話が載せられている。ただし『常山紀談』は明和7年(1770年)成立の逸話集であり、史実である確証は無い。

また上杉家の家老・直江兼続らと連携して事前に挙兵の計画を練っていたとする説もあるが、これも江戸時代成立の逸話集などに登場する説であり、一次史料による裏付けは無い。

七月晦日付真田昌幸宛三成書状には「三成からの使者を昌幸の方から確かな警護を付けて、沼田越に会津へ送り届けて欲しい」(真田宝物館所蔵文書)と記されており、西軍決起後の七月晦日の段階においても、上杉氏との確かな交信経路を持ち合わせていなかった点から、上杉側と三成の具体的な謀議や提携は、無かったとする考察もある。

決起した西軍は7月18日、家康家臣・鳥居元忠の守る伏見城を包囲。8月1日に城は陥落する。

8月に入って伊勢国に侵攻した西軍は伊賀上野城安濃津城松坂城などを落とすが東軍の西上の動きを知って美濃方面へと転進。こうして東西両軍は関ヶ原で相まみえることになる。

通説では当初はやや西軍優勢で進むも、小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなったとされている。

しかし東西どちらの陣営に付くか迷った秀秋の陣に、家康が鉄砲を打ち込んだため意を決した秀秋が西軍に襲いかかったとする経緯は、江戸時代成立の二次史料に記されているものであり、合戦後すぐに作成された9月17日付の石川康通彦坂元正による連署書状には秀秋が開戦直後に裏切ったと記されている。

戦いに敗れた三成は、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。

そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。

一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継を初めとする石田一族の多くは討死した。

9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後、家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。