9月12日、田辺城に籠城していた細川幽斎が勅命を受け入れて退城。9月13日前後に東西両軍間で和睦が成立して大津城が開城し9月15日に毛利元康が大津城に入る。同日関ヶ原にて東西主力の戦闘が行われ東軍勝利。同日家康は佐和山にまで軍を進める。

9月17日、毛利元康が大津城を退去し、同日佐和山城落城。同日に大垣城内にいた相良長毎・秋月種実・高橋元種は熊谷直盛・垣見一直・木村由信父子の三名を殺害し、その首を持参して投降。城に残った福原長堯はその後20日過ぎまで抵抗を続ける。

この頃より輝元と家康との間で黒田長政・福島正則を介した交渉が始まり、現毛利領が安堵される条件で和睦が成立 (但し10月になってこの約束は反故にされ、周防・長門2ヶ国に減封される)。

9月25日、家康と秀忠は福島正則・黒田長政ら5名の大坂入城を確認し、輝元は退去。

続いて9月27日には家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と「和睦」。

10月1日、恵瓊・行長・三成の3名が京六条河原にて斬首された。

9月15日の布陣と戦闘経過

関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過についての記録のほとんどは、合戦後に幕府や参戦大名によって作成された編纂物、または軍記物といった二次史料であり、信憑性の高い一次史料による記録は僅かである。

二次史料同士の記述は、同じ戦闘を扱っているにも関わらず内容に食い違いが生じていることも少なくなく、『関ヶ原合戦史料集』の著者藤井治左衛門はそれら史料群について「当日の戦況を書いた軍記物は、数多くあるが、いずれも全部正しいと思われるものは殆どない。」と評している。

合戦終了2日後の慶長5年9月17日に作成された松平家乗宛石川康通・彦坂元正連署書状の内容は以下通りである。

(1)9月14日に赤坂に着いた家康は15日の午前10時ごろ、関ヶ原に移動し合戦に及んだ。石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜多秀家の各勢は前日14日の夜に大垣城の外曲輪を焼き払って関ヶ原へ出陣。(2)「先手」の井伊直政・福島正則隊に東軍各隊が続いて敵陣に攻め掛かった時、小早川秀秋・脇阪安治・小川祐忠父子が「うらきり」をしたため敵は敗走した。

 

(3)その後追撃戦によって島津豊久・島左近・大谷義継・戸田勝成・平塚為広らが討ち取られた。

9月15日付伊達政宗宛家康書状には午の刻(午前12時ごろ)に戦闘は終了し、勝利した家康はその日のうちに佐和山に着陣したとある。

二次史料による合戦当日の記録

関ヶ原の戦いに関する軍記・家譜・覚書類は非常に数が多いため、それらにおける合戦当日の記録すべてをここで記述・比較することは不可能である。

そこで、まず『内府公軍記』における9月15日の記事を要約して記し、比較材料として明暦2年(1656年)成立の『関原始末記』と、正徳3年(1713年)成立の『関原軍記大成』から西軍の布陣とおおまかな戦闘経過を抜き出す。 『内府公軍記』の著者は『信長公記』の著者として知られる太田牛一。

合戦の翌年慶長6年には原本が成立しており関ヶ原関連の二次史料群の中で最初期の書物といえる。

複数の自筆本・写本が現存するが、ここでは初期の原本を模写したものと考えられる杤山家所蔵本を底本とする

『内府公軍記』

家康が赤坂に着陣すると大垣城の石田三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家の各隊は山中まで引き、翌朝には垂井の南にある岡が鼻山に毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊・長束正家ら計2万が弓鉄砲を前衛に陣を構える。

家康はこの方面に池田輝政・浅野幸長を送り込み、自らは旗本衆の指揮を執って野上と関ヶ原の間に陣を張った。

 15日朝は霧と降雨によって視界不良であったが、巳の刻(午前10時ごろ)には晴天となり視界も開け、物見の部隊が戦闘を開始する。

石田・小西・島津・鍋島の各隊は藤子川(藤川)を越え、小関村の南に南東へ向け陣を敷き、石原峠にいた大谷吉継・宇喜多・平塚為広・戸田勝成の各隊は峠を下りて谷川を越え、関ヶ原より北の平野へ進出し、西北の山を背後にして南東へ向け兵を出す。

東軍は先陣の福島正則隊が道筋(中山道)を西へ、その南側を藤堂高虎・京極高知隊が進み、中筋(北国街道)からは織田有楽斎・古田重然・猪子一時・船越景直・佐久間安政の各隊が参戦し激戦となる。

金森長近・細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政らの部隊も先を争って攻めかかる。戦いの半ば小早川秀秋・脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠が寝返り、そこへ松平忠吉隊が乱入し、忠吉は数ヶ所の傷を負いながら組み討ちで功名を挙げた。井伊直政隊も松平隊に随伴して参戦し、直政も負傷しながら力戦。吉継は馬上で切腹し、島左近父子・平塚・戸田は討ち死。

西軍は中筋を通って突入してきた本多忠勝隊の攻勢に堪えきれず、追い討ちによる多数の死者を出しながら玉藤川(藤川)を下って伊吹方面に敗走を始め、南宮山の西軍各隊も敗走。家康は首実検を行い、兵士に休息を与えると、その日のうちに佐和山城を包囲した。

『関原始末記』

西軍の布陣は、小関村の北の山際に島左近隊を先手とした石田隊、その左の山際には織田信高と大坂黄母衣衆。

石田隊後方に島津隊。小関村の南、北国街道と関ヶ原本道(中山道)に挟まれた地域に宇喜多・小西・大谷・平塚・戸田隊。本道の南、松尾山に小早川・脇坂・朽木・小川隊。南宮山の後方に長束・安国寺・吉川・長宗我部隊。 開戦時刻は辰の刻(午前8時ごろ)。

先陣は福島・京極・藤堂・松平・井伊・本多で、田中・細川・黒田・加藤・金森ら二番手は石田隊を攻撃。

宇喜多・島津隊は松平・井伊隊の攻勢により敗走し、これを追撃した直政は島津兵の銃撃で負傷。本多隊が突入したところで小早川ら松尾山の諸隊が寝返り、その攻撃を受けた大谷隊は崩壊。吉継は切腹、平塚・戸田は討ち死し、石田隊は裏切りによる混乱を起こして敗走。