なお、当初島津義弘と小早川秀秋は家康に味方するため城側に入城の意思を示したが拒否され、やむなく西軍に属して城攻めに加わったとする説がある。

しかし前者は「島津家譜」、後者は「光録物語」等、関ヶ原の戦い後江戸時代に成立した二次史料の記述を典拠としており、史実である確証は無い。

西軍結成に関する諸説については「#西軍の首謀者と結成の過程」参照。

東軍諸大名の反転

7月18日、稲葉通孝が「関東陣沙汰」が延期になったとして国許に引き返す。 ただし7月19日には秀忠が、21日には家康が江戸から会津に向け出陣しており、この時点では会津征伐自体は中止されていない。

 しかし7月21日付で細川忠興が家臣松井康之らに宛てた書状によれば、この時点で輝元と三成の決起の報告が上方から家康の許に続々と入っており、7月23日になると家康から最上義光に対して、三成と吉継が各地に書状を触れ回しているという「雑説」があるので会津侵入は「御無用」とする指示が出される。さらに7月26日になると関東に参陣していた畿内・西国の東軍側諸大名が西進を開始。家康も「即刻上洛」の意思を示す。 なお、この時点での東軍の戦略目標は三成の居城佐和山城であった。

 

7月27日、榊原康政は秋田実季に、三成と吉継が「別心」したので、家康に対して淀君・豊臣三奉行・前田利長らより上洛の要請があることと、会津方面おける指揮権が家康から秀忠に移されたことを伝える書状を出している。

ところが7月29日になると一転して三奉行が「別心」した事を伝える家康の書状が黒田長政・田中吉政・最上義光に出されている。

この時点で黒田・田中の両勢はすでに西へ向かっており、7月30日には藤堂高虎に対しても西進の命令が出されている。

なお7月25日に下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた東軍諸大名が軍議を開き、会津征伐中断と軍勢の西上を決定したいわゆる「小山評定」が行われたとされる。

しかし「小山評定」についての詳細を直接記した一次史料は無く、評定の有無・内容・意義を巡っては様々な説が出されている。

詳細については「#小山評定をめぐる諸説」参照。

西軍の伊勢侵攻と東軍の岐阜城攻め

7月26日付の書状で豊臣三奉行は中川秀成に輝元勢2万は瀬田と守山の間で陣取り、東軍の西進があれば迎撃する予定であること、また秀家と秀秋の両勢が醍醐・山科・大津に展開していることを伝える。

7月29日に三成が伏見に到着。

8月1日、伏見城が落城。同日輝元・秀家と豊臣三奉行に三成を加えた四奉行は、木下利房に木下勝俊と共に、加賀国小松に進出した前田利長に備える為北ノ庄へ向かうように指示を出すが、8月3日西軍側山口宗永の籠もる加賀大聖寺城は前田利長よって攻め落とされ、宗永は自害。

8月4日、家康は西進する福島正則・池田照政ら諸大名に対して井伊直政を派遣したので、その指示に従うようにとの書状を出す。8月5日家康は小山から江戸に戻り、同日三成も佐和山に戻る。

この頃西軍は尾張清洲城に入った福島正則を説得中であり、これが成功すれば西軍は三河侵攻、失敗すれば清州を攻撃する予定であった。

8月8日には吉川広家と安国寺恵瓊が指揮を執る約1万の軍勢が長束正家勢とともに伊勢へ出陣。また、三成も岐阜城主織田秀信と相談のうえ尾張方面に出陣。この時点では輝元が3万の兵力をもって、浜松で家康を迎撃する予定であった。8月17日に島津義弘が美濃垂井に着陣し、20日には本国薩摩に向け増援の要請を出している。

8月19日、黒田長政らは井伊直政・本多忠勝に対して家康の出馬を待たずに、木曽川を越えて犬山城方面に進出することを報告。

8月22日、東軍諸大名は清須周辺に集結し、同日木曽川を渡った池田照政麾下の部隊が秀信勢と戦いこれを破る。

翌23日には福島正則以下各隊が秀信の居城岐阜城を攻め秀信を降服させ、救援に駆け付けた三成・島津勢も撃退。

8月24日、徳川秀忠は信州上田攻略のため宇都宮を立つ。岐阜城と同じ西軍側の犬山城に対して、井伊直政が同日付の書状で、城主石川貞清とともに籠城している竹中重門らに城の明け渡しを勧告。

8月26日より秀家・行長・三成・義弘・秀頼の馬廻衆ら2万人が守る大垣城に対して、東軍8万人による包囲が開始され、城方は毛利勢に救援を要請する。

8月27日、岐阜落城の知らせを受けた家康は岐阜攻めに参加した諸大名に戦功を賞する書状を出し、福島正則には自分と秀忠勢が到着するまで軍事行動を控えるよう指示する。

一方、伊勢に侵入し、安濃津・松坂の両城を降伏させた西軍は尾張へ向かう。

決戦と抗争終結

9月1日、家康が江戸を出立。同日付書状で、この頃垂井に集結していた福島・池田らの東軍主力諸将に、自分の到着まで自制するよう再度指示を出し、掘直寄には大垣城を水攻めで落とすつもりであることを伝えている。

9月2日、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治が北国口を抑える為に関ヶ原南西の山中村に布陣。

9月3日、犬山城が開城。同日細川幽斎が籠城する丹後田辺城に向け、和平の使者として日野輝資・中院通勝・富小路秀直が出立。

この頃より城主京極高次の寝返りにより東軍の城となった大津城に対する西軍の攻囲が始まる。

9月5日一度は徳川秀忠に降伏を申し出た真田昌幸が一転して抗戦を表明。砥石城を放棄して上田城に撤退。

9月7日、に毛利秀元、吉川広家が南宮山に着陣。

9月14日、小早川秀秋が関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城。続いて9月14日夜大谷義継が関ヶ原に着陣する。

一方、家康は9月9日に岡崎、10日熱田、13日岐阜と軍勢を進め、14日には赤坂に着陣。享保12年(1727年)成立の『落穂集』には島津義弘が、赤坂の家康本陣への夜襲を提案するも、島左近が反対し、三成がそれに従った結果作戦が採用されなかったとする逸話が載せられている。ただし、この夜襲策について記された一次史料は確認されない。

夜襲策の真偽については「#島津義弘の夜襲策について」参照。