本来大名への加増転封は大老奉行の合議・合意のもと行われるものであるが、家康はこれを単独の決定によって進めている。

このように政権内部での権力を強化していく家康に対して、この時期の前田玄以・増田長盛・長束正家の豊臣三奉行は政務面で協力的であり、輝元も恭順の意を示している。

また佐和山に隠居していた三成も家康暗殺計画事件の際は前田勢への備えとして軍勢を派遣し、大坂の自邸を宿所として提供するなど、家康とは比較的良好な関係あった。しかし、最終的に彼等は反家康闘争を決断することになる。

会津上杉征伐の決定

こうした政治的状況下、慶長5年(1600年)春頃より大老上杉景勝と家康との関係が悪化。

4月には家康家臣伊奈昭綱らが会津若松に送り込まれ、神指城築城や津川への架橋を豊臣政権への「別心」=反逆であるとして詰問し、景勝に6月上旬の上洛を要求する。5月中旬、この要求に対して景勝は上洛の意志を伝えるとともに、秋までの上洛延期と、上杉家に謀叛の疑いを掛けた者の追及の要求するが、結局上杉側の提示した要求は受け入れられず、6月上旬に景勝上洛は中止となる。

なお、家康に対して直江兼続が景勝への上洛要求を挑発的な文面で批判した、いわゆる「直江状」と言われる史料が存在するが、この文書の真贋や由来、内容解釈については諸説が存在している。

一方家康は会津との交渉結果が出ていない5月3日の段階ですでに会津征伐を決定しており、6月2日には本多康重らに7月下旬「奥州表」に出陣すること伝えている。

『慶長年中卜斎記』では家康が6月15日に豊臣秀頼と淀君に会見し、黄金2万枚と米2万石の他に正宗(あるいは政家)の脇差しと楢柴肩衝を餞別として送られたとしているが、『関ヶ原軍記大成』では「餞別の引出物」とのみ記され、『当代記』(寛永年間成立)・『関原始末記』(明暦2年成立)には会見そのものの記述が無いなど二次史料同士での記録は一致しない。

6月16日に大坂を発った家康は同日に伏見に入城。伏見城内における家康の言動について、『慶長年中卜斎記』には「17日に千畳敷の奥座敷へ出御。御機嫌好く四方を御詠(なが)め、座敷に立たせられ、御一人莞爾々々(にこにこ)と御笑被成より…」と記されている。

上杉景勝は上杉領へ侵攻する討伐軍を常陸の佐竹義宣と連携して白河口で挟撃する「白河決戦」を計画していたとされる。

しかし本間宏は決戦の為に築かれたとされる防塁の現存遺構が、慶長5年当時の造営物であるか疑問であること、発給文書等の一次史料と「白河決戦」論の根拠である『会津陣物語』(延宝8年成立)『東国太平記』(延宝8年成立か)等の二次史料の記述が矛盾している点などから「白河決戦」計画の実存を否定している。

なお、上杉家の挙兵は、家康が東国に向かう隙に畿内で石田三成が決起し、家康を東西から挟み撃ちにするという、上杉家家老・直江兼続と三成との間で事前より練られていた計画に基づくものとする説がある。

ただしこれは江戸時代成立の軍記物・逸話集などに登場する説であり、直接の裏づけとなる一次史料は無い。

宮本義己は慶長3年7月晦日付真田昌幸宛石田三成書状の内容から西軍決起後の七月晦日の段階においても、両者の交信経路は確立されておらず、よって挟撃計画は無かったとする。

諸将の去就

関ヶ原決戦前における日本全国の大名・武将の去就を記す。西軍から東軍に寝返った大名については裏切りを参照。

家康の東進と毛利輝元の大坂入り

6月18日に伏見を発った家康は7月1日に江戸に到着し、7月7日には最上義光・秋田実季ら東北の諸大名に会津攻めに関する指示を出すとともに、7月21日(秀忠は19日)に出陣することを伝える。

7月5日、宇喜多秀家が豊国神社に参詣。

一方、上方に残っていた前田玄以・増田長盛・長束正家の豊臣三奉行は7月12日広島にいた毛利輝元宛に「大坂御仕置之儀」のための大坂入りを要請する書状を出し、増田長盛は家康家臣永井直勝宛に、大谷吉継の眼病と石田三成の出陣に関する「雑説」を報告。

また宍戸元次ら輝元の家臣は7月13日付けの書状で榊原康政・本多正信・永井直勝に安国寺恵瓊が輝元の命令として東進していた軍勢を近江から大坂に戻していることを報告し、14日には吉川広家も同様の報告を榊原康政に出している。書状の中で宍戸らは大坂への転進について三成と吉継の関与を疑っており、輝元は関知していないことであると述べている。

上坂要請を受けた輝元は7月15日に広島を出発し、同日加藤清正に秀頼への忠節ための上洛を促す書状を送る。同日、島津義弘は上杉景勝に輝元・宇喜多秀家・三奉行・小西行長・吉継・三成が秀頼のため決起したことを伝え、これに「同意」することを求める書状を送っている。

7月17日、豊臣三奉行は秀吉死後、家康が犯した違背の数々を書き連ねた「内府ちがひの条々」を諸大名に送付。

また輝元と秀家も前田利長に家康の非をならした書状を送る。同日、毛利秀元が大坂城西之丸に入る。

同日細川忠興家臣小笠原秀清は「奉行衆」よりの人質要求を拒否し、忠興室ガラシャらと共に大坂の忠興邸で自刃。正保5年(1648年)成立の『霜女覚書』等の二次史料はこの人質要求の主体を石田三成とするが、この時期一次史料で「奉行衆」と記されるのは豊臣三奉行のことである。

また「内府ちがひの条々」には家康が勝手に諸大名の妻子の帰国を認めていたことを弾劾する一文があり、家康の養女で真田信幸の妻の小松姫(沼田城において西軍についた舅・真田昌幸を追い返したという伝説で知られる)が開戦以前に帰国していた可能性が指摘されている。

7月18日、三成が豊国神社に参詣。7月19日には輝元が大坂城に入城し、丹後方面に向けて西軍勢が出陣する一方、家康家臣鳥居元忠らが留守を勤めていた伏見城に対する西軍の攻撃が開始され、22日に宇喜多秀家勢、23日には小早川秀秋勢が攻め手に加わる(伏見城の戦い)。