秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執

文禄4年(1595年)6月に発生した秀次切腹事件の影響を受けた諸大名と、秀次粛清を主導した石田三成との間の対立関係が抗争の背景にあった説である。秀次による謀反の計画への参加を疑われた諸大名に対する処罰のいくつかは、家康の仲裁により軽減されている。

結果両者は親密な関係を結ぶことになり、一方諸大名は三成を憎むようになったとする。

しかし、三成を事件の首謀者とする説は寛永3年(1626年)に執筆されて成立した歴史観となった「甫庵太閤記」と言う本の記述に登場して以降の軍記物等に取り入れられた逸話を根拠としており、史実として立証されたものでは無い。

「太閤様御置目」を巡る奉行衆と家康の対立

「太閤様御置目」(秀吉の遺言や死の前後に作成された掟・起請文群)に従って政権運営を進めようとする豊臣奉行衆と、それを逸脱して政権内での主導権を握ろうとする家康及びその家康を支持する一派との対立が抗争に繋がったとする説である。

家康は伊達政宗ら諸大名との間で進めた私的な婚姻計画をはじめ、秀吉正室北政所を追い出しての大坂城西の丸入城、大老・奉行による合意によって行われるべき大名への加増の単独決定、豊臣政権の人質である諸大名妻子の無断帰国許可など、秀吉死後数々の置目違反を犯しており、これらは関ヶ原の戦いにおいて西軍が家康を討伐対象とする根拠となっている。

 

一方で、前田玄以・増田長盛・石田三成・長束正家の四奉行は秀吉の死から間もない慶長3年8月27日に秀頼への忠誠と秀吉の定めた置目の遵守を改めて誓う起請文を毛利輝元と作成しており、その立場は家康の行動とは相違するものである。

政治抗争の発生

慶長3年(1598年)8月18日に秀吉が伏見城で死去すると、それ以降政権内部での対立が表面化していくことになる。

まず秀吉の死の直後、徳川家康と伊達政宗ら諸大名が、秀吉の遺言に違反する私的婚姻を計画していたことが発覚し大老前田利家や豊臣奉行衆らによる家康追及の動きが起こる。

一時は徳川側と前田側が武力衝突する寸前まで至ったが、誓書を交換するなどして騒動は一応の決着を見る。

正徳3年(1713年)成立の「関ヶ原軍記大成」では、この騒動の際伏見の家康邸に織田有楽斎(長益)・京極高次・伊達政宗・池田輝政・福島正則・細川幽斎・細川忠興・黒田如水・黒田長政・藤堂高虎・加藤清正・加藤嘉明ら30名近い諸大名が参集したとしている。

 

一方の大坂の利家の屋敷には毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野長政・浅野幸長・佐竹義宣・立花宗茂・小早川秀包・小西行長・長宗我部盛親・岩城・原・熊谷・垣見・福原・織田秀信・織田秀雄・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以・鍋島直茂・有馬晴信・松浦鎮信らが集まったとされる。

翌年の閏3月に利家が死去すると、五奉行の一人である石田三成が加藤清正・福島正則・黒田長政・藤堂高虎・細川忠興・蜂須賀家政・浅野幸長の七将に襲撃される。

三成は同行した佐竹義宣・宇喜多秀家の家老と共に、伏見城西丸の向かいの曲輪にある自身の屋敷に入った後、屋敷に立て籠もった。

三成を襲撃した七将の動機は慶長の役末期に行われた蔚山の戦いの際、不適切な行動をしたとして長政らが戦後処罰されたのは、三成の縁者福原長尭が秀吉に歪曲して報告したためと主張する、彼等の不満にあったとされている。

ただし忠興と正則は蔚山の戦いに参加しておらず、清正と幸長への処罰は発給文書類からは確認されない。家康・毛利輝元・上杉景勝・佐竹義宣・秀吉正室北政所らによる仲裁の結果、三成は奉行職を解かれ居城の佐和山城に蟄居となる。

宮本義己は最も中立的と見られている北政所が仲裁に関与したことにより、裁定の正統性が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価しているが、一方で清正らの襲撃行為自体は武力による政治問題の解決を禁じた置目への違反であった。

水野伍貴は当時七将が家康の統制下にあり、その行動は家康に容認された範囲内に限られていたとする。

加賀前田征伐と家康の権力強化

慶長4年(1599年)9月7日、家康は秀頼に重陽の節句の挨拶をするためとして伏見城から大坂城に入城。同日、家康に対する暗殺計画が発覚する。

計画は前田利家の嫡男で加賀金沢城主である前田利長が首謀者として五奉行のひとり浅野長政、秀頼・淀殿側近の大野治長、および加賀野々市城主の土方雄久が、大坂城入城中の家康を襲撃し暗殺するというものであり、寛永年間成立の『慶長年中卜斎記』では計画を家康に密告したのは増田長盛とする。

ただしこの事件に関する一次史料はわずかであり、計画の真相や騒動の経緯については不明な点が多い。

10月2日、暗殺計画に加担した諸将に対する処分が家康より発表され、長政は隠居を命じられ武蔵国府中に蟄居し、治長は下総結城、雄久は常陸水戸に流罪となった。翌3日には首謀者である利長を討伐すべく、「加賀征伐」の号令を大坂に在住する諸大名に発し、加賀小松城主である丹羽長重に先鋒を命じた。金沢に居た利長はこの加賀征伐の報に接し、迎撃か弁明の択一を迫られたが、結局重臣である横山長知を家康の下へ派遣して弁明に努めた。

家康は潔白の証明として人質を要求、慶長5年(1600年)正月に利長の母で利家正室であった芳春院・前田家の重臣の前田長種・横山長和・太田雄宗・山崎長徳らの子を人質として江戸に送ることで落着した。

また、この時、細川忠興は長男の忠隆の妻が利長の姉であったことから、利長の陰謀に組したという家康の嫌疑を受けたため、利長と同じく、同年の正月に三男忠利(15歳)を人質として江戸に送り、浅野長政も第三子の長重(15歳)を江戸に送っている。

この騒動のさなか、家康は北政所の居所であった大坂城西の丸に入り、その後も在城を続ける。秀吉の遺言では家康は伏見に在城することが定められており、大坂在城はこれに違反するものであった。

政敵を排除し政権中枢の大坂城に入った家康の権力は上昇し、城中から大名への加増や転封を実施した。これは味方を増やすための多数派工作と考えられている。細川忠興に豊後杵築6万石、堀尾吉晴に越前府中5万石、森忠政に信濃川中島13万7,000石、宗義智に1万石を加増。文禄・慶長の役で落度があったとして福原長堯らを減封処分とし、田丸直昌を美濃岩村へ転封した。