8「七将の三成邸襲撃

その一方で、この年に起きた蔚山城の戦いの際に在朝鮮の諸将によって戦線縮小が提案され、これに激怒した秀吉によって提案に参加した大名が譴責や所領の一部没収などの処分を受ける事件が起きた。

この際、現地から状況を報告した軍目付は三成の縁戚である福原長堯らであり、処分を受けた黒田長政、蜂須賀家政らはこの処分を秀吉に三成・長堯が意見した結果と捉え、彼らと三成が対立関係となるきっかけとなった。

慶長3年(1598年)、秀吉は小早川秀秋の領地であった筑後国筑前国を三成に下賜しようとしたが、三成は辞退している。しかし、筑後国・筑前国の蔵入地の代官に任命されて名島城を与えられた。

慶長4年(1599年)に予定されていた朝鮮における大規模攻勢では、福島正則や増田長盛と共に出征軍の大将となることが決定していた。

しかし、慶長3年(1598年)8月に秀吉が没したためこの計画は実現せず、代わって戦争の終結と出征軍の帰国業務に尽力した。

秀吉死後

秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継ぐ。しかし朝鮮半島よりの撤兵が進められる中、政権内部には三成らを中心とする文治派と、加藤清正・福島正則らを中心とする武断派が形成され対立を深めていた。

慶長3年(1598年)8月、毛利輝元と三成ら四奉行は、五大老の中に自分達と意見を異なる者が出た場合、秀頼の為に協力してこれにあたる事を改めて誓う起請文を作成している。

一方、徳川家康は同年10月から12月にかけて京極高次細川幽斎ら諸大名を訪問し、また水面下で福島正則、黒田長政、蜂須賀家政ら武断派諸侯と婚姻関係を結ぼうとしていた。

翌慶長4年(1599年)初頭、家康による縁組計画が発覚。これを文禄4年(1595年)8月に作られた「御掟」における大名間の私的婚姻の禁止条項に違反する行為であるとして、前田利家を中心とする諸大名から家康弾劾の動きが起こる。

四大老五奉行による問責使が家康に送られる一方、家康も国許から兵を呼び寄せる など対立は先鋭化するが、2月12日に家康が起請文[14] を提出することなどにより一応の解決をみた。

同年閏3月3日に前田利家が病死すると、その直後に加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明七将が、三成の大坂屋敷を襲撃する事件(石田三成襲撃事件が起きる。

石田三成襲撃事件

七将の三成邸襲撃

秀吉の死後、豊臣政権内において七将をはじめとする武断派と、石田三成など行政を担当する文治派の対立が表面化する。五大老の一人前田利家は二派の調停に努めたが、1599年慶長4年)閏3月3日に死去した。

利家の死去によって両派の対立を仲裁するものがいなくなったため、さらに両派の確執が増した。

朝鮮出兵における蔚山城の戦いの査定などで、以前から三成派に恨みを抱いていた武断派は、大坂城下の加藤清正の屋敷に集合し、そこから三成の屋敷を襲撃し、三成を討ち取る計画を立てた。

しかし三成は豊臣秀頼に侍従する桑島治右衛門の通報によりそれを察知し、島清興らとともに佐竹義宣の屋敷に逃れた。

なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られており、この事件は私戦でなくこれまでの政争の一環として展開されていて、事件の対立構造は七将と三成ではなく、徳川方と反徳川方勢力だったとする指摘もある。

三成の伏見逃亡

七将は屋敷に三成がいないと分かると、大坂城下の諸大名の屋敷を探し、佐竹邸にも加藤軍が迫った。

そこで三成一行は佐竹邸を抜け出し、京都の伏見城に、自身の屋敷がある事を活かして立て篭もった。 このとき三成が徳川家康の屋敷に逃げ込んだという逸話が、多くの史書や論書において記載されているが、同時代資料の『慶長見聞書』や『板坂卜斎覚書』には見られない。

この逸話の初見は、元禄末年から宝永初年頃に大道寺友山が記した『岩渕夜話』である。

ただし友山は享保年間に記した『落穂集』において、伏見の三成の屋敷に戻ったと記している参謀本部編纂の『日本戦史 関原役』では「(佐竹義宣が)三成を擁し伏見に還り家康に投ず」と記述されている。

この記述は「三成は(佐竹義宣に伴われて)伏見の家康の保護下におかれた」とも解釈できる文章であり、徳富蘇峰は『関原役』においてこの記述を踏襲し、「(佐竹義宣が)家康に託した」と記している。一方で、七将に対し家康が出した書状に「此方ぇ被罷越候」という記述があることから、家康邸に三成がやってきたのは史実だという主張もある。笠谷和比古はこれに対し、「此方ぇ被罷越候」は七将らの行動を指すものだとしている。

家康の調停と三成の失脚

翌日、伏見城も武断派に取り囲まれることとなるが、伏見城下で政務を執っていた徳川家康より仲介を受ける。七将が家康に三成を引き渡すように要求したが、家康は拒否した。

家康はその代わり三成を隠居させる事、及び蔚山城の戦いの査定の見直しする事を約束し、次男・結城秀康に三成を三成の居城・佐和山城に送り届けさせた。

三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られることになり、家康の評価も相対的に高まることになったと評価されている。

これに対して、家康と三成の関係は常に対立一辺倒ではなく両者が協調を模索している時期もあり、家康は双方に対して中立的に事態を解決しようとしたが、結果的にその振舞いが却って双方の対立を悪化させたとする見方もある。