明は日本と国交を結ばないまま滅亡し、明に代わって中国を支配するようになったは、すでに日本が鎖国を取ったため貿易は行うが、正式な国交を持とうとはしなかった(海禁も参照)。

日本軍の補給

文禄・慶長の役において、日本は初動において16万人に対する莫大な輸送量に対する補給を見事になしとげたが、黄海道を経て海路から北京を攻略する計画は制海権を得られずに補給線の確保ができなかったことから断念している。

また、朝鮮半島は陸路、海路ともに輸送経路が整備されておらず、補給活動で損耗が伴うような状態であった。[344]

朝鮮半島における補給線については、寸断されずに継続していたとされるが、近年の韓国の歴史学会からは「李舜臣が日本軍の補給線を寸断した」という主張が行われている(例・日韓歴史共同研究報告書(第1期)・鄭求福発表論文『壬辰倭乱の歴史的意味』「李舜臣による海戦の勝利によって海路を通じた軍糧の輸送も遮断された。」)

日本軍の補給路は、肥前名護屋から海路壱岐を経て対馬厳原に到り、対馬北端に位置する大浦などから釜山に着岸して荷を下ろし、その後は陸上を漢城に向かうというものであった。

この補給路を朝鮮水軍が寸断するには、釜山の港を継続的に海上封鎖するか、釜山そのものを占領奪還するしか方法はなかった。

しかし、実際のところ李舜臣が釜山の海上封鎖を行ったことはなく、釜山前洋に現れること自体殆ど無かった。

 閑山島海戦までの李舜臣の活動域は加徳島より西方の海域であり、釜山近くに現れることは殆ど無かった。

一度だけ釜山に現れたのが文禄元年8月29日(明暦9月1日)の釜山浦海戦であった。李舜臣は釜山と日本本土の海上補給路を分断する必要を痛感しており 、朝鮮水軍の総力をあげて釜山港に強硬突入した。しかし、李舜臣の釜山の占領奪還作戦は失敗し、日本軍の補給路を寸断することはなく退却した。

たった一日の数時間の出来事であり継続性が無く、この後、李舜臣が釜山の前洋に現れることも二度と無く、日本軍の補給路は堅持され安泰であった。

日本軍の補給の状況を示す資料も多数存在する。

漢城在陣諸将が文禄2年3月3日に発した連署状には、海路、釜山には兵糧は運ばれており、4月11日までは漢城に兵糧があることが書かれている

文禄2年4月、日本軍は漢城を引き払い、朝鮮南部に再布陣する。ルイス・フロイスの『日本史』には、朝鮮南部の沿海地域に兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されていたことが書かれている。

南部への再布陣の後、補給を充足させた日本軍は、文禄2年6月、再攻勢を開始し、29日、朝鮮側最大の反抗拠点と目された晋州城を攻略した。この晋州城攻略作戦は文禄の役が始まって以来最大の作戦であり、9万を超える軍勢が晋州城とその周辺に投入されている。

晋州城の攻略後、ただちに日本軍は慶尚道南部の沿海部に、現在倭城と呼ばれる多数の城郭群を構築し、長期の駐留体制を整えた。

ルイス・フロイスの『日本史』によれば、これらの城郭には、兵糧・弾薬が海路輸送され豊富に備蓄されており、しかもそれは2年以上持ち堪えるほど莫大な量に達していた 

また、この時期、上杉景勝、伊達政宗、佐竹義宣といった増援軍が続々と、海路、日 本から釜山へと渡海している。

文禄3年5月24日に豊臣秀吉が発した朱印状には、釜山・加徳島・東莱・竹島(金海)等の倭城に莫大な量の兵糧が備蓄されており、これらが古米化しないように、新しい兵糧米との入れ替えを指示する内容が書かれている。

沿岸の主要港湾には日本式城郭(倭城)が築かれ要塞化されており、日本軍の補給路は頑強に保持される体制が整っていた。

 日本と明の講和交渉中(1593年2月以降)にも、李舜臣は倭城群の攻略の為に複数回出撃しているが、最初の関門である熊川倭城を遂に攻略・突破することが出来なかったのである。

慶長の役においても、日本軍の補給路は堅持され安泰であり、制海権を撤退まで維持し続けた。

 慶長の役では、漆川梁海戦で元均麾下の朝鮮水軍が壊滅的打撃を被った後、李舜臣が三道水軍統制使に復帰し、朝鮮水軍の指揮をとるが、以後一度も釜山近郊に現れていない。

鳴梁海戦の後も李舜臣が根拠地としていた場所は全羅道西方の古今島であったが、そこから東の順天から釜山のおよそ140㎞に及ぶ沿岸は日本軍の制圧下にあり、海岸には多くの倭城が築かれていた。朝鮮水軍が釜山に到達することは困難であった。

李舜臣率いる朝鮮水軍は、日本軍が占領し倭城を築いた地域よりも東へは進出することが出来ず、一度も釜山の前洋に現れなかった。釜山の日本軍の補給路は寸断されることなく安泰であったのである。

しかし、朝鮮水軍が一度だけ釜山の前洋で日本軍の補給線を妨害したことがあった。慶長の役の初頭、文禄の役後の講和交渉の進捗で日本軍が巨済島から撤収していた。

この影響で、元均率いる朝鮮水軍は巨済島を停泊地にして釜山前洋に進出することが可能であった。しかし効果を挙げる間もなく元均麾下の朝鮮水軍は漆川梁海戦で日本水軍の逆襲を受け壊滅的打撃を被り、補給線妨害作戦はここに終決した[359][360]

慶長3年3月13日に豊臣秀吉が朝鮮在番の諸将に発した書状には、「兵糧を日本の都へ届けるよりも、その方(朝鮮)に届けるほうが容易である」と書かれている。

秀吉の死後、五大老の命令により、日本軍は撤退を開始する。1598年11月下旬から、諸大名は順次、釜山から博多へ帰着した。最後まで海上補給路が維持されていたからこそ可能な撤退作戦であった。

7年に亘る戦争の間、大軍の海上輸送と揚陸、海岸の拠点・海上補給路の構築と長期間の維持という渡海作戦は成功を収めていたのである。

軍事力と軍事情勢

以下、関係国の軍事力を記す。なお、当時の各国の人口は、1600年の時点で、日本は2200万人、李氏朝鮮は500万人、明朝は1億5000万人であったと推測されている(歴史上の推定地域人口参照)。

またイベリア帝国(スペイン・ポルトガル)は1050万人、オランダは150万人、ブリテン諸島全体で625万人であった。