6「碧蹄館の戦いと幸州山城の戦い

文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦幸州山城の戦に参加。

その後、軍の講和使・謝用梓徐一貫を伴って肥前名護屋城に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。

碧蹄館の戦い(へきていかんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。

文禄2年1月26日(1593年2月27日)に朝鮮半島の碧蹄館(ピョクチェグァン(벽제관)、現在の高陽市徳陽区碧蹄洞一帯)周辺で、平壌奪還の勢いに乗り漢城(現ソウル)めざして南下する提督李如松率いる約20,000の軍を、小早川隆景らが率いる約20,000の日本勢が迎撃し打ち破った戦い。

明の軍勢による平壌陥落、大友吉統の逃亡(誤報による無断退却とも)などによって一時混乱状態にあった日本勢だが、朝鮮半島北部各地に展開していた諸将を漢城に集めて戦力を立て直し、宇喜多秀家を総大将、小早川隆景を先鋒大将として兵力をほぼ二分し碧蹄館の戦いにのぞんだ。

23日、開城にて李如松が漢城攻略の作戦会議を開き、査大受を偵察隊として送る事を決める。24日、査大受率いる明軍の偵察隊が日本軍の偵察隊(主な指揮官は加藤光泰前野長康)に勝利、日本軍偵察隊は60人余りの死者をだし撤退する。

査大受はこの勝利を開城の李如松に報告。朝鮮人による「日本軍の精鋭は平壌で壊滅し漢城には弱兵が残るのみ」との報告もあったため、25日、李如松は2万の兵と共に開城を出発する。

戦闘の経過

日本軍は迎撃の先鋒を立花宗茂高橋直次(後の立花直次)兄弟とし、午前2時頃、先に森下釣雲十時惟由ら軽兵30名が敵状を偵察、敵軍は未明の内に進軍すると予測し、午前6時頃碧蹄館南面の礪石嶺北側二所に布陣した。

先鋒500を率いた十時連久内田統続を正面に少ない軍旗を立てることで、查大受の率いる明軍2000を騙して進軍するよう誘致し、越川峠南面にて正面で連久らと交戦を開始した。

そして宗茂と直次の本隊2000は、先鋒の連久らと中陣700の小野鎮幸米多比鎮久を陣替する際に、直次と戸次鎮林戸次鑑方の次男)を陣頭に立てて、左側面から敵後詰・高彦伯の朝鮮軍数千に奇襲を仕掛けて撃退に成功し、更に宗茂は800騎の備えを率いて明・朝鮮軍を猛烈追撃、戦果を拡大した。

ここで日本軍は7千の敵軍と遭遇する。立花軍は奮戦するが、敵軍は次々に新鋭を繰り出し兵を入れ換えてくる。

この最中、十時連久、内田統続、安田国継(此時の名は天野源右衛門貞成と呼ぶ)らは突撃を敢行、鑓を投げて数十騎を突落し、明・朝鮮軍を中央突破して回転突破したが、その際に中陣の戸次統直は強弓を引いて20餘の敵兵を射落し援護しながらも、連久が李如梅の毒矢を受けて、帰陣から間もなく戦死し、旗奉行の池辺永晟も連久負傷後は先鋒隊の指揮を暫任し中陣と替わるのを成功させたが、後の追撃戦で戦死した。

寡兵の立花・高橋勢は奮戦してこれを撃退、越川峠北方右側にて兵を休ませ、この後に小早川隆景など日本軍先鋒隊が到着すると、疲労の深い立花勢を後方に下げて、西方の小丸山に移陣した。この戦端が開かれた時点では日本軍本隊はまだ漢城に在った。

午前10時頃、高陽原に明軍は左・右・中央の三隊の陣形で押し寄せた。日本軍先鋒隊は全軍を碧蹄館南面の望客硯に埋伏させ、同時に三方包囲策を進行し立花、高橋と吉川広家が左方、毛利秀包、毛利元康、筑紫広門と宇喜多秀家が右方から迂迴進軍する。午前11時頃、正面に出た小早川隆景軍の先陣二隊の内、明軍の矢面に立った粟屋景雄隊が次々繰り出される新手を支えきれずに後退を始めると明軍はすかさず追撃に移る。

しかし戦機を待ってそれまで待機していたもう一方の井上景貞隊がその側背に回り込んで攻撃したことで明軍は大混乱となった。その機を逃さず、立花、高橋勢が左方から、小早川秀包毛利元康筑紫広門勢が右方から側撃、隆景本隊と吉川広家、宇喜多家臣戸川達安花房職之も正面より進撃し、明軍前衛を撃破して北の碧蹄館にいた李如松の本隊に迫って正午の激戦となった。

この際立花の金甲の将・安東常久と一騎討ちして李如松自身も落馬したが、李如梅の矢を受けて安東は戦死した。

落馬した李如松は小早川の部将井上景貞の手勢に迫られたが、側近の李有升が盾となってこれを助け、李如梅、李如柏らが救出した、李如松の親衛隊も李有升など80余名ほど戦死した。

そこに明軍副総兵楊元が火軍(火器装備部隊)を率いて援軍として駆けつけ態勢を回復して防戦に努めるが、身動きもままならない狭隘地に三方から包囲される形となって壊走を始めたのは午後1時頃であった。

かくして日本軍本隊の本格的な戦闘参加を待たずに正午頃には戦いの大勢は決し、小早川隆景らの日本軍は退却する明軍を碧蹄館北方の峠・恵陰嶺に午後2時から4時まで追撃し深追を止めたが、立花宗茂と宇喜多秀家の軍勢はより北の虎尾里まで追討し、午後5時までに漢城へ引き上げた。

なお、立花軍の金備え先鋒隊長小野成幸や与力衆の小串成重小野久八郎と一門の戸次鎮林、そして高橋家中今村喜兵衛井上平次帆足左平梁瀬新介も戦死し、立花宗茂はこの激戦で騎馬まで血塗れとなり、二つの甲首を鞍の四方手に付け、刀は歪んで鞘に戻せなくなったという。

また、小早川秀包の家老横山景義、下級武士の桂五左衛門内海鬼之丞伽羅間弥兵衛手島狼之助湯浅新右衛門吉田太左衛門波羅間郷左衛門なども戦死した。

明軍の被害

この戦いでは、歩兵・火器を温存した明軍は騎兵中心の編成となっていたが、碧蹄館の地は騎兵の機動力を活かすことの出来ない狭隘な渓谷であり、かつ前夜よりの雨で泥濘地と化していた騎馬に不適な戦場であったこともあり、この一戦で明軍の被った損害は甚大で、戦死者数6,000余に上るとされる。

 朝鮮王朝実録の記事では、日本軍戦死120人、明軍死傷1,500人とあり、朝鮮王朝実録の別の記事では、日本軍と明軍の死傷者が双方500~600人とある[30]。また別の記事には「天兵(中国兵)短劍、騎馬, 無火器, 路險泥深, 不能馳騁, 賊(日本軍)奮長刀, 左右突鬪, 鋒銳無敵。」という記述もある。更に朝鮮王朝実録の記事では、李如松の麾下の親衛隊の内、李有升ら勇士80人余りが戦死した事も記されている。