双方に決定的な戦果のないまま、厭戦気分の強い日本軍諸将が撤退を画策して未決着のまま終息したため、対馬藩偽使を用いて勝手に国交の修復を試み、江戸時代に柳川一件として暴露された。

戦役の影響は、明と李朝には傾国の原因となる深刻な財政難を残した。朝鮮側は戦果を補うために捕虜を偽造し、無関係の囚人を日本兵と称して明に献上せざるを得なかった。

豊臣家にも武断派文治派に分かれた家臣団の内紛をもたらしたので、三者三様に被害を蒙ったが、西国大名の中には多数の奴婢を連れ帰るなどして損害を弁済した大名もあった。

名称

豊臣政権時から江戸時代後期あたりまでは、この戦役が秀吉が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであるということから、「唐入り」や「唐御陣」と呼ばれたり、「高麗陣」や「朝鮮陣」などの呼称が用いられていた。秀吉自身は「唐入り」と称し、他の同時代のものとしては「大明へ御道座」という表現もあった。

朝鮮征伐」という表現も歴史的に頻繁に用いられてきた。これはすでに江戸初期の1659年(草稿成立は1644年頃[9])に刊行された堀杏庵(堀正意)『朝鮮征伐記』において見られた。

この戦役を征伐とする立場は後述する倭乱の逆バージョンであるが、北条氏直を攻めた小田原征伐島津義久を攻めた九州征伐などでも用いられており、朝鮮だからとことさら卑下して表現したわけではない[注 15]し、韓国では現在でも元寇を「麗蒙の日本征伐」と呼んでいる。

堀杏庵は、秀吉は民の苦しみを顧みずに戦役を行ったとして撫民仁政の思想から批判したが、征伐そのものを否定したわけではなく、江戸期の絵本太閤記や明治期のその他の歴史書籍の多くにおいて、朝鮮征伐は単純に秀吉の武勇伝の一つと捉えられていた。

これは江戸中期の学者山鹿素行が提唱した朝鮮を日本の属国と定義した史観(中朝事実)や、江戸後期の日本史研究を主導した水戸学者たちが秀吉が死去しなければ明も日本領になっていたとの考えが影響しており、彼の野望は称賛されこそすれ、批判の対象ではなかったからである。明治初期に起こった征韓論に伴ってこの戦役も「征韓の役」などと呼ばれたこともあったが、これは島津綱久万治年間(1658-60年)に編纂を命じた『征韓録』が先であり、幕末の水戸学者川口長孺なども『征韓偉略』(1831年)を著した。

征韓は意味としては朝鮮征伐と同義である。しかし懲罰の意味合いのある「征伐」や「征韓」(または征明)の表現は日本では避けられるようになっている。

朝鮮出兵」の呼称も早くからあり、戦後も昭和期には教科書で広く使われていたが、出兵の表現も次第に避けられるようになっている。

1960年代の世相を反映して、朝鮮出兵が海外侵略であったということが強く意識された結果、朝鮮社会が受けた被害にもより関心が持たれ、「朝鮮侵略」が盛んに使われた時期もあり、「大陸侵攻」などの表現も登場した。

1980年代になると史学では多角的分析が主流になるが、1990年代になると日韓の文化交流が解禁されて韓国の書籍が翻訳されるなどし、後述の朝鮮での呼称も日本の書籍でみられるようになって、用語は多様化した。

近年の日韓関係を反映して、教科書等の記述にはかなり変動があったわけであるが、現在は、第一次出兵を「文禄の役」として第二次出兵を「慶長の役」とし、併せて「文禄・慶長の役」とする呼称で定着している。また略称としては単に、前役、後役とも言う。

中国では「抗倭援朝」または「朝鮮之役(朝鮮役)」と呼ばれるが、後者は朝鮮戦争(または朝鮮での戦役)という意味であり、1950年の同名の戦争やその他の朝鮮での戦争と区別する意味で、中国の当時の元号である万暦を付けて「萬暦朝鮮之役」と称されている。

日本で書き言葉に漢文が使われていた影響で「朝鮮役」という呼称も古くは使われたが、これはこの中国語の呼称をそのまま用いたものであった。中国から見て遠征であったという解釈では「萬暦東征」という呼称もある。

また「萬暦日本役」という呼称もあったとされるが、戦地を戦役名とするのが慣習であり、現在はあまり使われていない。

朝鮮半島(韓国北朝鮮)では李王朝の時代から、この戦役も小中華思想を基にして従来通りに倭乱であると定義し、戦乱が起こった時の干支を取って、文禄の役を「壬辰倭乱」と呼び、慶長の役を「丁酉倭乱」または「丁酉再乱」[注 22]と呼んだ。現在も韓国ではこの倭乱が用いられており、2つの戦役を一つと見て壬辰倭乱を戦争全体の総称として使う場合もある。

また、北朝鮮では「壬辰祖国戦争」と言う呼称も用いられる。

近年、三国の自国史を超克することを目的として行われた日韓中共同研究では「壬辰戦争」という呼称が提唱された。

韓国の歴史学界でも、倭乱の使用は自国中心史観で不適切として、一部の教科書では2012年から「壬辰戦争」との表記に変わった。

ただし韓国では「イムジンウェラン(壬辰倭乱)」が未だに一般的な呼称で、書籍や新聞、テレビ等で広く用いられている。

日朝関係前史

隣国である日本と朝鮮半島との間は歴史的に関わりが深く、戦争や侵略の経験も相互に持った。

秀吉が生きていた当時からも大部分は認識されており、現在では以下の外交および軍事的出来事が前史として両国に存在していたことが分かっている。

663年に、新羅連合軍と大和朝廷百済連合軍が衝突した白村江の戦いがあり、大和・百済側が敗北した。

これ以後、大和朝廷は朝鮮半島への直接介入をやめてしまい、(何度か計画は持ち上がったものの)日本側からは数万に及ぶ大規模な出兵は文禄の役まで約千年間も途絶えることになった。しかし一方で交易は断続的に続けられた。他方、812年から906年までの間、小規模な海賊による新羅の入寇が繰り返され、997年から1001年にかけての高麗海賊による入寇があった。1019年には、高麗(及び傘下の女真族)による刀伊の入寇があった。

1224年から5回に渡って、高麗の金州(現中国領)や巨済島などに初めて倭人の海賊が襲来。後に倭寇と呼ばれる海賊の活動が始まった。高麗は大宰府に海賊取締りを要請し、少弐職にあった武藤資頼は大使の目の前で海賊90名を処刑させた。