制海権を掌握した場合、直隷平野(北京周辺)で決戦を遂行、(乙)日本近海だけ制海権を確保した場合、朝鮮に陸軍を増派し、朝鮮の独立確保に努力、(丙)制海権を失った場合、朝鮮に残された第五師団を援助しつつ、国内防衛とされた。

8月14日、朝鮮半島南部に待機中の連合艦隊から「自重ノ策」をとると打電された大本営は、第二期作戦を(乙)で進めることにし、各師団長に訓示した(第三師団には出動命令)。31日、大本営は、「冬季作戦大方針」を定め、上記「作戦大方針」の(乙)を(甲)に変更し、直隷決戦を行うことにした。しかし、実際に制海権をまだ掌握していないため、1)直隷決戦の根拠地として旅順半島の攻略確保、2)清軍を南満洲に引きつけるための陽動作戦(奉天攻撃)を実施、3)陽動作戦の準備として清軍が集結する平壌を攻略するとされた。翌9月1日、まず3)を実施するため、第一軍が編成された。

なお、当時の戦争指導は、政治主導であった。天皇の特旨により、本来メンバーではない山縣枢密院議長と伊藤首相と陸奥外相が大本営に列席し、伊藤首相は西洋列強の思惑を踏まえた意見書を提出することもあった(山東作戦の実施決定と台湾攻略に大きく影響)。

政治が軍事をリードできた要因として、第一に統帥権独立の制度を作った当事者達であったため、同制度の目的と限界を知っており、実情に合わないケースで柔軟に対処できたことが挙げられる。

第二の要因として、指導層の性格が挙げられる。当時の指導層は、政治と軍事が未分化の江戸時代に生まれ育った武士出身であり、明治維新後それぞれの個性と偶然などにより、政治と軍事に進路が分かれた。

したがって、政治指導者は軍事に、軍事指導者は政治に一定の見識をもっており、また両者は帝国主義下の国際環境の状況認識がほぼ一致するとともに、政治の優位を自明としていた(陸軍大学校・海軍兵学校卒の専門職意識をもつエリート軍人が軍事指導者に上りつめていない時代)。

関連して藩閥の存在も挙げられ、軍事に対する「政治の優位」つまり「藩閥の優位」でもあった。なお、そうした要因は、日露戦争後しだいに失われたものの、第一次世界大戦後にはいわゆる「大正デモクラシー」を経て議会制民主主義が根付くと見られた。しかし1930年代初頭の世界恐慌後に軍による主導にシフトすることになる。

日本と比して広大な国土と莫大な兵力を持つ清は、1884年当時、圧倒的に優勢と思われていた。

しかし、挙国一致の日本と交戦する清は、そもそも平時から外交と軍事が不統一であった。光緒帝の親政下、外交・洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を所管する総理衙門(慶親王等)と軍務を所管する軍機処(礼親王等)とが分離したままであった(開戦後の9月29日、戦争指導のために外交と軍事を統括するポストが新設)。

その上、外交が一体化されていなかった。貿易港全体を管轄するとはいえ、決定権のない総理衙門(首都北京)と、天津港に限られるとはいえ、欽差大臣として全権を持つ北洋通商大臣李鴻章(天津)とが二元的に外交を担っていたのである。

とくに対朝鮮外交は、対ロシア交渉で譲歩を引き出したイリ条約締結年の1881年(光緒7年)以降、礼部から兵権をもつ北洋通商大臣の直轄に移行し、朝鮮で総理朝鮮交渉通商事宜をつとめる袁世凱と密接に連絡をとる李が総理衙門と対立していた。

軍事も外交と同じように、開戦時に一体化されていなかった。常備する陸海軍の兵権が分散されていたこともあり(実質的な私兵化)、当初、日本との開戦は、国家を挙げた戦争ではなく、北洋通商大臣の指揮するものと位置づけられた。

同大臣の李は、元々渤海沿岸の3省(直隷・山東・奉天)の海防とそのための兵権、3省の総督に訓令できる権限、朝鮮出兵の権限を与えられていた。

また、北洋水師(北洋艦隊)を統監するとともに、私費を投じて編成した勇軍の一つ、いわゆる北洋陸軍を抱えていた。

しかし開戦後、盛京将軍宋慶に隷属する東三省の錬軍(正規軍八旗の流れをくむ精鋭部隊)も前線に投入されたので、二元統帥に陥る可能性があった。

そのため12月2日、欽差大臣劉坤一に山海関以東の全兵権が与えられた。

このように外交と軍事が錯綜する清には、開戦直前、李や官僚の一部、西太后等の無視できない戦争回避派がいた。

7月16日、軍機処と総理衙門などの合同会議では、開戦自重を結論とし、18日に上奏された。

そのこともあって李は、結果的に兵力を逐次投入してしまう。しかし9月15日、平壌で敗れると、戦略を大きく転換した。

19日、上奏文により、日清戦争について北洋通商大臣の指揮する戦闘から、国家を挙げての戦争と位置づけ直し、持久戦をとるよう提案した。

持久戦で西洋列強の調停を期待し、それから日本との講和に臨む構想であった。9月29日、恭親王に外交・軍事を統括する最重要の権限が与えられる等、ようやく清でも国家を挙げて戦う体制が整えられ始めた。

しかし、肝心な兵力にも問題があった。攻守を左右する制海権で重要な役割を果たす海軍力は、海軍費が西太后の欲する頤和園修復に使われた[* 36](ただし異説あり)など、増強が進んでいなかった。

例えば、清の4 艦隊(北洋・南洋・福建・広東)のうち、戦闘能力の最も高い北洋艦隊でさえ、開戦4年前の1890年(明治23年)に就役した巡洋艦「平遠」(排水量2,100t)が最後に配備された新造艦であった。

実質的に制海権の帰趨(きすう)を決めた黄海海戦では、1892年(明治25年)に就役し、広東水師(広東艦隊)から編入されていた「広丙」(排水量1,000t)が参加するものの、対する日本艦隊は、1891年(明治24年)以降に就役した巡洋艦6隻(いずれも平遠を上回る排水量で、うち4隻が4,200t級)が参加した。

問題は、海軍力だけでなく、陸軍力にもあった。開戦時、常備軍の錬軍と勇軍には、歩862営(1営当たり平均350人)、馬192営があり、その後、新募兵の部隊が編成された。

しかし、そうした諸部隊の間には、士気や練度や装備などの差があり、文官の指揮で実戦に参加する部隊もあるなど、近代化された日本軍と対照的な側面が多かった。

なお清の陸兵は、しばしば戦闘でふるわず、やがて日本側に「弱兵」と見なされた(日本の従軍記者は、清の弱兵ぶり、木口小平など日本兵の忠勇美談を報道することにより、結果的に後者のイメージを祖国のために戦う崇高な兵士にして行った)。