ただし、上陸前から輸送船内でコレラが発生しており、しかも島内は不衛生で飲料水が不足した。そのため、上陸後にコレラが蔓延し、陸軍の混成支隊6,194人(うち民間人の軍夫2,448人)のうち、発病者1,945人(908人)、死亡者1,257人(579人)もの被害がでた。同支隊のコレラ死亡率20.3% (23.7%)。

 

11、「休戦・講和

1895年(明治28年)3月19日(光緒21年2月23日)、清の全権大使李鴻章が門司に到着した。

下関での交渉の席上、日本側の台湾割譲要求に対して李は、台湾本土に日本軍が上陸すらしておらず、筋が通らないと大いに反論した。

しかし、24日に日本人暴漢が李を狙撃する事件が起こり、慌てた日本側が講話条件を緩和して早期決着に動いたため、30日に一時的な休戦で合意が成立した(ただし台湾と澎湖列島を除く)。

4月17日、日清講和条約(下関条約)が調印され、清・朝間の宗藩(宗主・藩属)関係解消、清から日本への領土割譲(遼東半島・台湾・澎湖列島)と賠償金支払い(7年年賦で2億両(約3.1億円)、清の歳入総額2年半分に相当)、日本に最恵国待遇を与えること等が決まった。

5月8日(4月14日)、清の芝罘で批准書が交換され、条約が発効した。

三国干渉

調印された日清講和条約の内容が明らかになると、ロシアは、日本への遼東半島割譲に反発した。

4月23日、フランス・ドイツと共に、日本に対して清への遼東半島還付を要求した(三国干渉)。翌24日、広島の御前会議で日本は、列国会議を開催して遼東半島問題を処理する方針を立てた。 しかし25日早朝、病床に就く陸奥外相が訪ねてきた伊藤首相に対し、1) 列国会議は三国以外の干渉を招く可能性が、2) 三国との交渉が長引けば清が講和条約を批准しない可能性があるため、三国の要求を即時受け入れるとともに、清には譲歩しないことを勧めた。

5月4日、日本は、イギリスとアメリカが局外中立の立場を採ったこともあり、遼東半島放棄を閣議決定した。

翌5日、干渉してきた三国に対し、遼東半島の放棄を伝えた。なお11月8日、清と遼東還付条約を締結し、還付報奨金として3,000万両を得た(第二条)。

台湾民主国と台湾平定(乙未戦争)

日本は、5月8日の日清講和条約発効後、割譲された台湾に近衛師団(歩兵連隊と砲兵連隊が二箇大隊で編成され、他師団より小規模)を派遣した。

29日に近衛第一旅団が北部に上陸を始め、6月17日に台北で台湾総督府始政式が行われた後、19日に南進が始まった。

しかし、流言蜚語などによる武装住民の抵抗が激しいため、予定していた近衛第二旅団の南部上陸を中止し、北部制圧後の南進再開に作戦が変更された。増援部隊として編成された混成第四旅団(第二師団所属の歩兵第四旅団が基幹)と警備用の後備諸部隊が到着する中、7月29日、ようやく旧台北府管内を制圧した。

8月28日、近衛師団が中部の彰化と鹿港まで進出し(ただし病気等で兵員が半減)9月16日、台南を目指す南進軍が編成された。

10月、すでに台湾平定に参加していた混成第四旅団を含む第二師団が南部に分散上陸し、10月21日、日本軍が台南に入った。

11月18日、大本営に全島平定が報告された(参加兵力:二箇師団と後備諸部隊などを含め、将校同等官1,519人、下士官兵卒48,316人の計49,835人、また民間人の軍夫26,214人)。軍政から民政に移行した翌日、1896年(明治29年)4月1日に大本営が解散された。

なお犠牲者は、平定した日本側が戦死者164人、マラリア等による病死者4,642人に上った。女性子供も参加したゲリラ戦などによって抵抗した台湾側が兵士と住民およそ1万4千人死亡と推測されている。

両国の戦争指導と軍事戦略

日本

日本は、日清戦争全体を通して主戦論で固まり、政治と軍事が統一されていた。

開戦前の5月30日、衆議院で内閣弾劾上奏案を可決する等、条約改正など外交政策をめぐって伊藤内閣と激しく対立する対外硬六派も、開戦後、その姿勢を大きく変えた。

解散総選挙後、広島に召集された臨時第七議会で、政府提出の臨時軍事費予算案(その額1億5,000万円は前年度一般会計歳出決算額8,458万円の1.77倍)を満場一致で可決する等、伊藤内閣の戦争指導を全面的に支援した。

つまり開戦により、反政府的な排外主義的ナショナリズムが、これを抑えてきた政府の支持に回ったのである。

また、反政府派の衆議院議員だけでなく、知識人も清との戦争を支持した。たとえば、対清戦争について福澤諭吉は「文野〔文明と野蛮〕の戦争」と位置づけ(『時事新報』1894年7月29日)、内村鑑三は「義戦」と位置づけた。

なお、内村と同じように10年後の日露戦争で非戦〔反戦〕の立場をとる田中正造も、対清戦争を支持していた。

そうした一種の戦争熱は、民間の義勇兵運動の広がり、福沢や有力財界人などによる軍資金献納にも現れた。清との戦争は、まさに挙国一致の戦争であった。

6月5日、参謀本部内に史上初めて大本営が設置され、形式上戦時に移行した。

8月4日、大本営が「作戦大方針」を完成させ、翌日、天皇に上奏された。大方針では、渤海湾沿岸に陸軍主力を上陸させて清と雌雄を決すること(直隷決戦)が目的とされ、このための作戦が二期に分けられた。

第一期作戦は、朝鮮に第五師団を送って清軍をけん制、残りの陸海軍が出動準備と国内防衛、海軍が清の北洋水師(北洋艦隊)掃討と黄海・渤海湾の制海権掌握とされた。第二期作戦は、第一期作戦の進行、つまり制海権で三つが想定された。