8月(7月17日)、日朝間で済物浦条約が締結され、日本公使館警備用に兵員若干の駐留などが決められた(2年後の甲申政変で駐留清軍と武力衝突)。

日本は、12月に「軍拡八カ年計画」を決定するなど、壬午事変が軍備拡張の転機となった。清も、旧来と異なり、派兵した3,000人をそのまま駐留させるとともに内政に干渉するなど、同事変が対朝鮮外交の転機となり、朝鮮への影響力を強めようとした。たとえば、「中国朝鮮商民水陸貿易章程」10月では、朝鮮が清の属国、朝鮮国王と清の北洋通商大臣とが同格、外国人の中で清国人だけが領事裁判権と貿易特権を得る等とされた。

その後、朝鮮に清国人の居留地が設けられたり、清が朝鮮の電信を管理したりした。

なお同事変後、日本の「兵制は西洋にならいて……といえども、……清国の淮湘各軍に比し、はるかに劣れり」(片仮名を平仮名に、漢字の一部を平仮名に書き換えた)等の認識を持つ翰林院の張佩綸が「東征論」(日本討伐論)を上奏した。

1884年(明治17年、光緒10年)、ベトナムを巡って清とフランスの間に緊張が高まったため(清仏戦争勃発)朝鮮から駐留清軍の半数が帰還した。

朝鮮政府内で劣勢に立たされていた金玉均など急進開化派は、日本公使竹添進一郎の支援を利用し、穏健開化派政権を打倒するクーデターを計画した。

12月4日(10月17日)にクーデターを決行し、翌5日(18日)に新政権を発足させた。

その間、4日(17日)夜から竹添公使は、日本の警護兵百数十名を連れ、国王保護の名目で王宮に参内していた。

しかし6日(19日)、袁世凱率いる駐留清軍の軍事介入により、クーデターが失敗し、王宮と日本公使館などで日清両軍が衝突して双方に死者が出た。

政変の結果、朝鮮政府内で日本の影響力が大きく低下し、また日清両国が協調して朝鮮の近代化を図り、日清朝で欧米列強に対抗するという日本の構想が挫折した。

なお、日本国内では、天津条約が締結される1か月前の1885年(明治18年)3月16日『時事新報』に脱亜論(無署名の社説)が掲載された。

1885年(明治18年)4月18日(光緒11年3月4日)、全権大使伊藤博文と北洋通商大臣李鴻章の間で天津条約が調印された。

同条約では、4か月以内の日清両軍の撤退と、以後、朝鮮出兵の事前通告および事態収拾後の即時撤兵が定められた。

なお、この事前通告は自国の出兵が相手国の出兵を誘発するため、同条約には出兵の抑止効果もあった。

朝鮮情勢の安定化を巡る動き

旧来、朝鮮の対外的な安全保障政策は、宗主国の清一辺倒であった。

しかし、1882年(明治15年、光緒8年)の壬午事変前後から、清の「保護」に干渉と軍事的圧力が伴うようになると(「属国自主」:1881年末から朝鮮とアメリカの間で結ばれた条約では、朝鮮側の提示した条約草案の第一条で「朝鮮は清朝の属国である。」とされ、岡本隆司がその清朝関係を「属国自主」と呼んだ。)、朝鮮国内で清との関係を見直す動きが出てきた。たとえば、急進的開化派(独立党)は、日本に頼ろうとして失敗した(甲申政変)。朝鮮が清の「保護」下から脱却するには、それに代わるものが必要であった。

清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。

日本が進めた朝鮮の中立化(多国間で朝鮮の中立を管理)、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。さらに日清両国の軍事力に蹂躙された甲申政変が収束すると、ロシアを軸にした安定化案が出された(ドイツの漢城駐在副領事ブドラーの朝鮮中立化案、のちに露朝密約事件の当事者になるメレンドルフのロシアによる単独保護)。

つまり、朝鮮半島を巡る国際情勢は、日清の二国間関係から、ロシアを含めた三国間関係に移行していた。

そうした動きに反発したのがロシアとグレート・ゲームを繰り広げ、その勢力南下を警戒するイギリスであった。イギリスは、もともと天津条約(1885年)のような朝鮮半島の軍事的空白化に不満があり、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。

そして1885年(光緒11年)、アフガニスタンでの紛争をきっかけに、ロシア艦隊による永興湾(元山沖)一帯の占領の機先を制するため、4月15日(3月1日)に巨文島を占領した。

しかしイギリスの行動により、かえって朝鮮とロシアが接近し(第一次露朝密約事件)、朝鮮情勢は緊迫してしまう。

ロシアはウラジオストク基地保護のために朝鮮半島制圧を意図した。

朝鮮情勢の安定化の3案(中立化、単独保護、共同保護)は、関係各国の利害が一致しなかったため、形式的に実現していない。

たとえば、第一次露朝密約事件後、イギリスが清の宗主権を公然と支持し、清による朝鮮の単独保護を促しても、北洋通商大臣の李鴻章が日露両国との関係などを踏まえて自制した。

もっともイギリスは、1891年(明治24年)の露仏同盟やフランス資本の資金援助によるシベリア鉄道建設着工などロシアとフランスが接近する中、日本が親英政策を採ると判断し、対日外交を転換した。

日清戦争前夜の1894年(明治27年)7月16日、日英通商航海条約に調印し、結果的に日本の背中を押すこととなる。

結局のところ朝鮮は、関係各国の勢力が均衡している限り、少なくとも一国の勢力が突出しない限り、実質的に中立状態であった。

日本の軍備拡張

明治維新が対外的危機をきっかけとしたように帝国主義の時代、西洋列強の侵略に備えるため、国防、特に海防は重要な政治課題の一つであった。

しかし財政の制約、血税一揆と士族反乱を鎮圧するため、海軍優先の発想と主張があっても、陸軍(治安警備軍)の建設が優先された。

ただし、1877年(明治10年)の西南戦争後、陸軍の実力者山縣有朋が「強兵」から「民力休養」への転換を主張(同年12月「陸軍定額減少奏議」など)するなど、絶えず軍拡が追求されたわけではない。

軍拡路線への転機は、1882年(明治15年、光緒8年)に朝鮮で勃発した壬午事変であった。