影響

伊藤博文全権が起草・調印したこの条約によって李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱して大韓帝国となり、第26代の高宗が中国皇帝の臣下を意味する「国王」の称号を廃して、はじめて皇帝と称することとなった。

後にロシア・ドイツ・フランスによる三国干渉が起こった。

開港開市の規定などについて、欧米列強は最恵国待遇を得ていたので日本と同じ恩恵を受けることができた。

なお賠償金のテール(両)は、1テール=37.3gで2億両(746万kg相当)の銀払いだった。その後の三国干渉による遼東半島の代償の3000万両(111.9万㎏)を上乗せして合計857.9万㎏(現在価値(2011.4 日中銀取引相場価格)で銀1㎏が12万円程度なので、1兆294億円前後。当時価格で日本の国家予算8000万円の4倍強の3億6000万円前後、現在の43兆円前後となり、当時の国家予算の4倍であることから日本の現在の国家予算を年100兆円と考えると400兆円前後にあたる)以上の銀を日本は清国に対して3年分割で英ポンド金貨で支払わせた。

日本はこれを財源として長年の悲願だった金本位制への復帰を遂げた。一方賠償金の支払いは清国にとって大きな負担になり、清国は更に弱体化した。

経過

陸奥宗光が後に記した『蹇々録』によれば、交渉は以下のように進んだと記されている。

1894年(明治27年)11月上旬から米、英、露が調停のための斡旋を開始する。

しかし12月4日、伊藤博文内閣は「威海衛を衝き台湾を略すべき方略」を大本営に提出。実際に台湾を占領しなければ、世論に応え、台湾の譲与を和平条約の要件として盛り込むことはできないと確認した。

1895年(明治28年)1月31日、清国使節の張蔭桓と邵友濂が講和のために広島に到着したが、陸奥宗光は翌2月1日の会談において、両者の持っている書簡は全権委任状ではなく、地位についても不十分なので、講和を結ぶことができないとした。

伊藤博文は清国使節団の随員伍廷芳に李鴻章か恭親王を全権大使として求め、第一回の使節団は2月12日、長崎を離れ帰国した。

3月19日、全権大臣の李鴻章と甥の李経方が下関に到着。翌20日、全権委任状を持っていることをお互いに確認、同地の割烹旅館・春帆楼で講和会議が始まる。

清側はまず休戦を求めるが、21日、日本側は徹底した譲歩を要求した条件提示したので休戦は先延ばしとなった。23日、日本側は歩兵一個旅団を台湾島西方の澎湖諸島に上陸させた。

24日、清国側は休戦よりも講和条約の締結を望み、条約の条項に他国の干渉を招くような項目を控えるように望んだ。

この会談の帰途に李鴻章は小山豊太郎に襲われ負傷する。これによって各国の同情が清に集まることとなり、休戦の先延ばしが困難になる。

28日、日本側は休戦条約の草案を清側に提示するが、「台湾、澎湖列島およびその付近において交戦に従事する所の遠征軍を除く他」などという文面を清側が訂正を求める。

日本側は「日清両帝国政府は盛京省、直隷省、山東省地方に在て下に記する所の條項に従ひ両国海陸軍の休戦を約す」という文面に変更し、30日に休戦定約が締結される。

4月1日、講和条約の草案を日本側が提示する。5日、清側は草案について以下のような修正を望む。(1) 朝鮮の独立については、清側だけでなく両国が認めるという形に訂正すること、(2) 割譲地は全面拒否、(3) 賠償金の大幅な減額、(4) 開港場所の見直し他

8日から、負傷した李鴻章に加えて李経方が欽差全権大臣として交渉の席につく。9日の清側による訂正案は、(1) 前回と同様、(2) 割譲地は奉天省内の安東県、寛甸県、鳳凰県、岫巖州、澎湖列島に止め、台湾を除くこと、(3) 賠償金は無利子の1億両他などが出された。

10日、陸奥は(1) 朝鮮については訂正を許さず、(2) 台湾は絶対の条件だということ、(3) 賠償金は2億両、(4) 新規開港の数は減らすなどの訂正案を提示し、これについて受諾かどうかのみを問うた。清側は (2) 台湾は武力で占領されたものではないので受け入れ不可、奉天省内も営口を除くこと、(3) 更なる賠償金の減額を求めた。11日にも清側は重ねて (2) 台湾の除外と (3) 賠償金の更なる減額を求めたが、日本側はこれを退けた。

15日、割譲地の微細な変更や支払いの方法等の調整がなされ、17日に講和条約が結ばれた。

日清講和記念館

1937年、日清講和記念館が春帆楼の敷地内に設置された。館内には会議の様子が再現されている。

 

6、「戦争目的と動機」

日本

‘’’宣戦詔勅’’’ 「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ…」

『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』では、朝鮮の独立と改革の推進、東洋全局の平和などが謳われた。しかし、詔勅は名目にすぎず、朝鮮を自国の影響下におくことや清の領土割譲など、「自国権益の拡大」を目的にした戦争とする説がある。

戦争目的としての朝鮮独立は、「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」と考えられている。

それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や前者の南下政策等があった[* 4](日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった)。

日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣陸奥宗光は「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く朝鮮をして独立国たらしめんにあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫。

三谷博・並木頼寿・月脚達彦編集の『大人のための近現代史』(東京大学出版会、2009年)の言い方では、朝鮮は「それ以前の近世における国際秩序においては中国の属国として存在していた。