1720年に粛宗が亡くなると再び党争は激化し、老論と少論の間での政争は絶え間なく続いた。景宗が即位すると、主力勢力であった老論が権力争いに敗れ、少論が政局を握った。政権を奪った少論派は1721年から1722年に渡って、老論の粛清を行った(辛壬士禍)。

蕩平策による王権強化

景宗は短命で亡くなり、1724年に第21代王として即位した英祖は熾烈な党争を抑えるために、蕩平政治(朝鮮語版)を行い、要職に就く者を各党派からバランス良く登用する事で政争を抑えた。

蕩平策は始め老論、少論を中心に人材登用していたが、1728年には朝廷から追放された少論、南人派による李麟佐(朝鮮語版)の乱が起きるとそれを逆手にとり、南人、小北にもその適用を拡大し、これら4党派を均等に登用することで政治のバランスを取ろうと試みた。各党派は自己の党勢の拡大のため、様々な策を弄してこれに対抗したが、英祖は逆に蕩平策を強化し、同党派同士の婚姻の禁止、蕩平科の設置など、更に蕩平策を強化し、政治は安定した。

その裏で各派は、世子問題などを利用して主導権を握ろうとの計略を何度も実行していた。代表的なのが荘献世子事件である。1762年英祖が、健康上の理由で荘献世子に公務の代理を務めさせようとすると、南人・少論・小北の勢力は荘献世子側に付き、老論の勢力はこれに反発する継妃の貞純王后や王女の和緩翁主(朝鮮語版)などを巻き込み、英祖との離間策を試みた。この策は上手くはまり、荘献世子は精神を病んでしまい異常行動を取るようになった。

それに激怒した英祖は自決を命じ、最終的に荘献世子は庶民に落とされ、米びつに閉じ込められ餓死させられる。事件後、荘献世子には「思悼」と言う諱号が送られた。この事件を深く悔やんだ英祖は蕩平策をさらに強めるが、朝廷内の党派はさらに分裂を生じ、荘献世子の死は正当であるとする老論を中心とした僻派(朝鮮語版)(時流に逆らう派閥という意味)とその死に同情し、不当とする南人・少論を中心とした時派(朝鮮語版)に別れ、それぞれの党派がどちらかに属すなど、党派の分裂はさらに混乱を極めた。

なお、この時代の1763年には日本へ赴いた朝鮮通信使がサツマイモを持ち帰っており、飢饉時の食糧対策として取り入れられた。

英祖の晩年になると、水面下で行われていた党争は再び表面に現れて来る。英祖の治世期間は52年と非常に長く、次代の正祖の時代に入ると新たな局面を迎える。

謀殺された荘献世子の息子であった正祖は、1776年、王位に就くと反対勢力である老論の排除を始め、自らの側近で朝廷内を固めた。その代表格が洪国栄であり、洪国栄が実際の政務を取り仕切っていた。この時代を洪国栄の勢道政治の時代と呼ぶ。

しかし1780年王妃毒殺未遂事件が発覚すると洪国栄は追放され、正祖による文化政治が行われる。基本的には英祖の蕩平政治の継承であり、派閥ではなく実力によって、人材登用を行うという政策であった。

英祖晩年に劇的に構成が変化した党派、僻派と時派を中心にした蕩平策を取り入れた。正祖は党争を嫌っていたものの、父の死を正当とする僻派勢力よりも父の死に同情的な時派寄りの立場を取った。しかし、僻派と時派による政治的党争は依然として続いたままであった。

 

甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)は1894年(甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱である。関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる。なお、大韓民国では東学農民運動東学農民革命と呼ばれている。

この戦争の処理を巡って、大日本帝国と清国の対立が激化し、日清戦争に発展する。

1860年代から朝鮮は変革の時代を迎えていた。これに1880年代以降、国内の動乱期を乗り越えた日本やアメリカ合衆国、西欧の列強が加わり、次の時代に向けた模索の中で混乱の時期を迎えていた。

閔氏政権の重税政策、両班たちの間での賄賂と不正収奪の横行、そして1876年の日朝修好条規(江華島条約)をはじめとした閔氏政権の開国政策により外国資本が進出してくる等、当時の朝鮮の民衆の生活は苦しい状況であった。朝鮮政府の暴政に対し次のような詩が朝鮮国内に広く伝昌されていた。

朝鮮の改革を巡っては、壬午事変甲申政変のような政変があったが、いずれも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革を行うことができずにいた。

このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、1894年に全羅道古阜郡で、群守の趙秉甲(朝鮮語版)が水税の横領を起こし、その横領に対して全羅道観察使に哀願を行った農民が逆に逮捕される事件が起きた。

この事件により、同年春に、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。反乱軍は全琫準という知将を得て5月には全州一帯を支配下に置いた。

全羅道古阜郡の民乱も当初は他の民乱と変わるところはなく、自分達の生活を守ろうとするものでしかなかった。しかし、この民乱の指導者に成長した全琫準を含め農民の多くが東学に帰依していたことから、この東学の信者を通じて民乱が全国的な内乱に発展してゆく。

全琫準は下層の役人であった。

しかし、17世紀から普及し始めた平民教育で、全琫準のような非両班知識人が形成されていた。この全琫準が発した呼びかけ文が東学信者の手で全道に撒かれ、呼びかけに応じた農民で、数万の軍勢が形成された。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。

これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し締結したといわれる(但し和約を結んだとする一次資料は発見されていない)。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が設けられ、全羅道に農民権力による自治が確立した。

日清戦争

反乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け入れずに対峙を続けた。日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出すが、清は「日本の撤兵が条件」として拒否。

日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れた。この申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれていた。これに朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答。

7月23日午前2時、日本軍混成第九旅団(歩兵四箇大隊など)が郊外の駐屯地龍山から漢城に向かい、「〔民間〕人ヲシテ」電信線を切断し、歩兵一箇大隊が朝鮮王宮を攻撃し占領した。日本は国王高宗を手中にし、大院君を再び担ぎだして新政権を樹立させた。