清の皇帝

清は満洲・モンゴル・旧明領・チベット・東トルキスタンこの五つの地域を束ねる同君連合であり、清の皇帝は、満洲人にとっては満洲族全員を率い、自らも上三旗の旗王である八旗の盟主(ハン)、旧明領の漢民族にとっては天命を受けた明王朝に替わる儒教天子、モンゴルにとってはチンギス・ハーンを継承するモンゴル諸部族の大ハーン、チベットにとってはチベット仏教の最高施主であり文殊菩薩の化身、東トルキスタンにとっては異教徒ながらイスラムの保護者である。

儒教も仏教もイスラムも単独で絶対視せず、支配地域それぞれの世界観に基づく王権像と秩序論を踏まえ、共通する価値を拾い上げながら、しかも個別の世界観とは一定程度の距離を置いて統治し、それぞれの文化圏の接触を厳しく制限した。

また清王朝はいわゆる暗愚な皇帝が少なかった。これは元々満洲人には生前に後継者を指名する習慣や長子継承の習慣は無く、部族長会議で最も優れた人物を部族長や部族長のまとめ役であるハンとしていたこと、政権は一族の共有財産という考えであったため皇帝による完全独裁ではなく、かつ皇帝に対する教育も徹底して行われていたこと、雍正帝によって定められた太子密建により皇子たちが皇太子に指名されるように常に努力することと、臣下の派閥争いを未然に防ぐことができ、また、皇太子を秘密裏にすら決めない場合につきまとった「皇帝が後継者を決めないまま急死した場合や皇帝が老齢で先が長くないと見られた場合に後継者争いが頻発する」という弊害も避けることが出来たことが理由にある。

太子密建が定められた背景には、康熙帝が皇二子である胤礽を皇太子と定めたが、各兄弟を中心とした派閥による度重なる後継者争いなどで胤礽は精神に異常をきたし、素行が悪くなったことで2度廃太子となった後、様々な確執の末に雍正帝が康熙帝の次の皇帝となったことにある。

ただし予め先代皇帝が後継者を指名していなければ機能しない制度であるため、同治帝、光緒帝、宣統帝に関しては再び旗王諸王による会議で決められている。

明代などには深刻であった国政に対する宦官の影響は、宮廷事務や皇帝の身辺の世話は皇帝直属の八旗の旗人の中で家政を担当する包衣が管轄する内務府が掌り、その管轄下に置かれた宦官の仕事は后妃の世話に限定されるようになったため、ほとんど無くなっていた。

また理藩部が管轄していた外蒙古では清朝皇帝にハルハ王家が皇帝位を譲渡し、清朝皇帝から爵位を授けられるという形でハルハ王家を始めとするモンゴル人貴族によって統治されていた。后妃の選定や降嫁といった通婚は八旗の他、孝荘文皇后に代表されるようにモンゴル王侯との間で行われ、民間の漢人と行われることは決してなかった。

帝室の姓氏

帝室の姓氏を満洲語でアイシンギョロといい、これを漢語に音写したものが愛新覚羅である。アイシンは「金」という意味のかつて女真人が興した金王朝やヌルハチが興した後金をからとった族名(ムクン)、ギョロは父祖の出身地の地名を戴いた姓氏(ハラ)で、合わせて「金のギョロ一族」氏を表す。満洲人は清代には漢人のように姓氏と名を続けて呼ぶ習慣は無かった。

 

3、「東学農民運動と日清駐兵」

1894年(明治27年)1月上旬、重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の下で蜂起し農民反乱が勃発した。自力での鎮圧が不可能な事を悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めた。清国側の派兵の動きを見た日本政府も天津条約に基づいて、6月2日に日本人居留民保護を目的にした兵力派遣を決定し5日に大本営を設置した。

日本側も部隊を送り込んできた事を危惧した朝鮮政府は急いで東学党と和睦し、6月11日までに農民反乱を終結させると日清両軍の速やかな撤兵を求めた。

しかし、日本政府は朝鮮の内乱はまだ完全には収まっていないとして15日に日清共同による朝鮮内政改革案を提示した。

これを拒絶した清国政府が彼我双方の同時撤兵を提案すると、24日に日本は単独で改革を行う旨を宣言しこれが最初の絶交書となった。

同時に日本の追加部隊が派遣され、6月30日の時点で清国兵2500名に対し日本兵8000名の駐留部隊がソウル周辺に集結した。

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。王朝名としては李朝(りちょう)。日本語の「李氏朝鮮」は「李家支配下の朝鮮」の意。北朝鮮では朝鮮封建王朝と呼ばれ、日本と北朝鮮以外の全ての国では大韓民国と同じ「朝鮮王朝」とも呼ばれる。李朝は歴史の順番によって高麗の次の王朝にあたり、朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもあった。

1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった[2]

1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約によって李氏朝鮮は清王朝を中心とした冊封体制から離脱し、近代国家としての形式的な独立や実質的な地位を得た。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。

1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年₈月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。

高麗王位を簒奪して高麗王を称した太祖李成桂は即位するとすぐに明に使節を送り、権知高麗国事としての地位を認められたが、洪武帝は王朝が交代したことで、国号を変更するよう命じた。これをうけた李成桂は、重臣達と共に国号変更を計画し、「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、洪武帝に選んでもらった。「和寧」は李成桂の出身地の名であったが[5]、北元の本拠地カラコルムの別名でもあったので、洪武帝は、むかし前漢の武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだ。そして李成桂を権知朝鮮国事に封じたことにより、「朝鮮」は正式な国号となった。