同時期には、国内でも洪秀全率いるキリシタン集団・太平天国による太平天国の乱(1851年 – 1864年)、捻軍の反乱(1853年 – 1868年)、ムスリム(回族)によるパンゼーの乱(1856年 – 1873年)や 回民蜂起(1862年 – 1877年)、ミャオ族による咸同起義(英語版)などが起こり、清朝の支配は危機に瀕した。穆彰阿の「穆党」の中から曽国藩が頭角を現し、李鴻章や左宗棠と湘軍を率いて鎮圧にあたった。

1861年、同治帝が即位すると穆彰阿は失脚し、皇母西太后による垂簾朝政下で曽国藩・李鴻章ら太平天国の鎮圧に活躍した「穆党」の漢人官僚が力を得て北洋艦隊などの軍閥を形成していった。また、政治・行政面では積弊を露呈していた清朝の旧体制を放置したまま、先ずは産業技術に於いて西欧の技術を導入する洋務運動を開始した。

半植民地化・滅亡

北西部の新疆(現・新疆ウイグル自治区)では、ヤクブ・ベクが清朝領内に自治権を持つ領主を蜂起させ新疆へ侵攻、同地を占領した(ヤクブ・ベクの乱)。

ロシアも1871年、新疆に派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の陝甘総督左宗棠により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的に曽国藩の息子である曽紀沢の手によって、1881年にはロシアとの間で不平等条約のイリ条約を締結した。

イリ界約に基づき、イリ地方のうちコルガス川以西はロシアが併合しセミレーチエ州に編入した。

カシュガル条約でパミール高原より西をロシアに割譲し(外西北)、現在の中国と中央アジア諸国との国境線が形成されていった。

これに対し、清は1884年新疆省を設置すると伴に旗人のイリ将軍らの施政権を削り、陝甘総督甘粛新疆巡撫(中国語版)が軍事行政を管轄する事となり内地化された。ロシアは1892年にパミール高原に侵攻しサリコル山(英語版)以西を条約無しで併合している。

1854年、冊封国暹羅(シャム)が朝貢を廃止すると共に不平等条約のボーリング条約を結んだ。

1872年、日本の琉球処分により清と薩摩藩の両者に朝貢していた琉球は、日本に合併された。

1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対抗し、対越南(ベトナム)宗主権を維持しようとして清仏戦争( - 1885年)が起きたが、清仏天津条約によって冊封国越南はフランスの植民地となった。

1886年、緬甸(ビルマ)は3度目のイギリス軍の侵略を被り滅亡した。清への臣従を拒む勢力が擡頭した朝鮮に対しては、宗主国としての内政権を揮い壬午事変(1882年)、甲申政変(1884年)を鎮圧したが、1894年に日本が起こした甲午改革では、鎮圧を企図したものの日清戦争( - 1895年)で敗北し、下関条約によって遼東半島および福建台湾省(中国語版)の割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、建国以来維持していた李氏朝鮮に対する広範な支配権も失った(ただし朝鮮・大韓帝国における清領租界は日韓併合後も清国が確保している)。

「眠れる獅子」と言われた清が日本にあえなく敗北する様子を見た欧州列強は、日本が課した巨額の賠償金支払債務に目をつけた。まずフランス共和国、ドイツ帝国、ロシア帝国はいわゆる「三国干渉」を通じて日本に遼東半島返還を迫るとともに代償として賠償金の大幅な増額を薦めた。

この事による清の財政悪化に乗じて欧州列強諸国が対日賠償金への借款供与を申し出て見返りとして租借地などの権益の縄張りを認めさせていったのが、1896年から1899年にかけての勢力分割(いわゆる「瓜分」)であった。

満洲からモンゴルをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏とした。同じく、イギリスは九龍半島(香港総督管轄)と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連(ダーリニー)(関東州、極東総督(ロシア語版)管轄)を租借地として、それぞれ海軍基地を築いて東アジアの拠点とした。

しかもロシアは賄賂をもちい露清密約で東清鉄道附属地を手に入れた。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しつつ国際共同租界設置に参加した。

李鴻章と左宗棠の海防・塞防論争を契機として、技術面だけの洋務運動に限界が見えてくると、政治面についても議論が活発になり、康有為・梁啓超ら若い知識人が、清も立憲君主制をとり国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱え始めた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取した(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派のクーデターに遭って失脚・幽閉された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅溥儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発を受け、3日で廃された。

1899年、外国軍の侵略や治外法権を持ち横暴の目立つキリスト教会・教徒の排撃を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンに掲げて外国人を攻撃したが、次第に略奪を行う暴徒と化した。

翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京駐留を認める北京議定書を結ばされ清の半植民地化は更に進んだ。

その後、西太后の死亡によって清朝政府は漸く近代化改革に踏み切り、1905年に科挙を廃止、六部を解体再編し、1908年欽定憲法大綱を公布して憲法発布・議院開設を約束し、1911年5月には軍機処を廃止して内閣を置いた。

しかし、慶親王内閣が「皇族内閣」と批判されて、清朝は求心力を取り戻せず、漢民族の孫文らの革命勢力が中国などにおいて次第に清朝打倒運動を広げた。10月、漢民族による武昌での武装蜂起をきっかけに中国で辛亥革命が起こった。モンゴルにおいても、12月に外藩蒙古の中から独立運動がおこった(モンゴル国)。

ここに清は完全な内部崩壊を迎えた(但し満洲とチベットでは蜂起が起こっていない)。

翌1912年1月1日、中国の南京で中華民国が樹立された。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は276年の歴史に幕を閉じ、完全に滅亡した。