満洲族は八旗に編成され、軍事力を担った。また、皇帝が行幸で直轄する地域を訪れる際には漢民族の支配者として、藩部の支配地域に行く際にはゲルに寝泊りを行いモンゴル服を着用するなど、ハーンとして振舞うことで関係を維持した。

重要な官職には漢族と同数の満洲族が採用されてバランスを取った。雍正帝の時代には皇帝直属の最高諮問機関軍機処が置かれ、皇帝独裁の完成をみた。

清が繁栄を極めたこの時代には文化事業も盛んで、特に康熙帝の康熙字典、雍正帝の古今図書集成、乾隆帝の四庫全書の編纂は名高い。

一方で満洲族の髪型である辮髪を漢民族にも強制し(ただしモンゴルは元々辮髪の風習を持ち、新疆では逆に禁止している)、文字の獄や禁書の制定を繰り返して異民族支配に反抗する人々を徹底的に弾圧する一方、科挙の存続等の様々な懐柔政策を行っている。

しかし、乾隆帝の60年に及ぶ治世が終わりに近づくと、乾隆帝の奢侈と十度に及ぶ大遠征の結果残された財政赤字が拡大し、官僚の腐敗も進んで清の繁栄にも陰りが見え始めた。

乾隆帝、嘉慶帝の二帝に仕えた軍機大臣のヘシェン(和珅)は、清朝で最も堕落した官僚の一人で、ヘシェンによる厳しい取り立てに住民が蜂起した白蓮教徒の乱が起こったが、乾隆帝の崩御後、親政を行おうとする嘉慶帝により自殺に追い込まれた。

このとき鎮圧に動員された郷勇と呼ばれる義勇兵と団練と呼ばれる自衛武装集団が、太平天国の乱で湘軍に組織化されて曽国藩・李鴻章・左宗棠のもとで軍閥化していくと共に、不満を持つ将兵は哥老会などに流れて三合会などと辛亥革命を支える組織になっていった。

西欧列強の進出と内乱

19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳った時代である。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。

これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。

19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということであった。伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。

しかし、18世紀後半になると、西欧諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末に西欧の対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。

また、アメリカも独立戦争後の1784年にアメリカの商船エンプレス・オブ・チャイナ号が広州で米清貿易を開始した。米清貿易により清は金属・オタネニンジン・毛皮を、米国は茶・綿・絹・漆器・陶磁器・家具を得た。

1793年、イギリスは広州一港に限られていた貿易の拡大を交渉するため、ジョージ3世が乾隆帝80歳を祝う使節団としてジョージ・マカートニーを派遣した。

使節団は工業製品や芸術品を皇帝に献上したが、商品価値を持つイギリスの製品は無く、ジョージ3世は自由に皇帝に敬意を表してよいという返答を得たのみであった。こうして対中輸出拡大を望むイギリスの試みは失敗に終わった。

この清の対応の結果、イギリスと清の貿易では、清の商人は銀での支払いのみを認めることとなった。

当時のイギリスは、茶、陶磁器、絹を清から大量に輸入していたが、中国に輸出する商品を欠いており、毎年大幅な貿易赤字となっていた。これに対し、イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命の資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する必要があり、インドの植民地で栽培した麻薬アヘンを中国に輸出することで三角貿易を成立させた。

清は1796年にアヘンの輸入を禁止したが、アヘン密貿易は年々拡大し、中国社会でのアヘンの蔓延は清朝政府にとって無視できないほどになった。

また、17世紀以降の国内の人口の爆発的増加に伴い、民度が低下し、自暴自棄の下層民が増加したこともアヘンの蔓延を助長させた。このため、1839年林則徐を欽差大臣に任命してアヘン密貿易の取り締まりを強化した。

林則徐は広州でイギリス商人からアヘンを没収して処分する施策を執ったが、アヘン密輸によって莫大な利益を得ていたイギリスは、この機会に武力でアヘン密輸の維持と沿岸都市での治外法権獲得を策して、翌1840年清国沿岸に侵攻しアヘン戦争を始めた。

強力な近代兵器を持つイギリス軍に対し、林則徐ら阿片厳禁派とムジャンガら阿片弛緩論派との間で国論が二分されて十分な戦力を整えられなかった清軍が敗北し、1844年イギリスと不平等な南京条約(およびそれに付随する虎門寨追加条約、五口通商章程)を締結した。

主な内容は、香港島の割譲や上海ら5港の開港、領事裁判権の承認、関税自主権の喪失、清がイギリス以外の国と締結した条約の内容がイギリスに結んだ条約の内容よりも有利ならば、イギリスに対してもその内容を与えることとする片務的最恵国待遇の承認であった(その後、1844年にフランスと黄埔条約を、アメリカと望厦条約を締結した)。

アヘンの対中密輸が伸び悩んだので、イギリスは1856年清の官憲が自称イギリス船アロー号の水夫を逮捕したのを口実として、1857年、第二次アヘン戦争(アロー戦争)を起こした。

イギリスは、宣教師が逮捕に遭った事を口実として出兵したフランスと共に、広州・天津を制圧し、1858年にアヘンの輸入公認・公使の北京駐在・キリスト教布教の承認・内地河川の航行の承認・賠償、さらに「夷」字不使用などを認めさせる天津条約を締結した。

条約の批准が拒否されると北京を占領し、批准のみならず天津ら11港の開港・イギリスに対する九龍半島南部の割譲を清に認めさせる北京条約を結んだ(1860年)。

これによりアヘン以外の商品の中国市場流入も進んだが、アヘンを除けば貿易赤字が続いた。また、このときロシアにより、まずアイグン条約(1858年)で黒竜江将軍管轄区と吉林将軍管轄区のうちアムール川左岸を、さらに北京条約(1860年)で吉林将軍管轄区のうちウスリー川右岸を割譲させられ、ロシアはそこをアムール州、沿海州として編入し、プリアムール総督府(ロシア語版)を設置した(外満洲)。

これは現在の中露国境線を形作るものである。なお新疆についても1864年タルバガタイ条約(中国語版)が結ばれイシク・クル、ザイサン湖以西を失った。