「歴史の回想・日清戦争」

1、 「はじめに」・・・・・・・・・・・・・・・・・2

2、 「日清戦争の起因」・・・・・・・・・・・・・・3

3、 「東学農民運動と日清駐兵」・・・・・・・・・・22

4、 「日清開戦」・・・・・・・・・・・・・・・・・42

5、 「講和条約と調印」・・・・・・・・・・・・・・64

6、 「戦争目的と動機」・・・・・・・・・・・・・・72

7、 「日清間の国境問題」・・・・・・・・・・・・・78

8、 「朝鮮の開国と壬午事変・甲申政変」・・・・・・87

9、 「開戦期・甲午農民戦争」・・・・・・・・・・・99

10、「展開期・大日本・大朝鮮両国盟約」・・・・・・109

11、「休戦・講和」・・・・・・・・・・・・・・・・124

12、「著者紹介」・・・・・・・・・・・・・・・・・134

 

 

 

 

1、「はじめに」

明治27年(1894)一年間、日本が清国と戦った戦争。「政治危機下の日本」1894年5月、朝鮮では東学奉ずる農民の蜂起(甲午農民戦争)により全羅道の首府全州が陥落した。朝鮮政府は宗主国の清国に救援を求め、清国はそれに応じた。天津条約(1885年)の規定によりその通告を受けた日本政府は、議会で内閣不信任案が可決された政治的危機に直面していたため、世論転換のために公使館と在留邦人保護を名目に川上操六参謀本部次長と陸奥宗光外相の謀議により混成旅団を出兵を決定した。内閣が宣戦を決議する以前の平時にもかかわらず戦時大本営条例により大本営を設置、参謀総長が用兵の全権を握り出兵した。両国の派兵で擾乱は収まり、清国代表の袁世凱も日清同時に撤兵を提案したが、陸奥外相は膨大な経費を要いて出兵したからには何らかの権利を得ないまま撤兵は世論が許さないと判断、清・朝鮮両国が到底承認できないと赴援清国軍の朝鮮国外退去と、日清両国が対等な立場で朝鮮内政を改革する要求を期限付き最後通牒の形式で両国に送付した。期限切れの7月23日、日本軍は朝鮮王宮を攻撃、親日派政権を樹立させて牙山の清軍攻撃の依頼をもぎ取り豊島海戦と成歓の戦いを経て8月1日清国に宣戦布告。9月15日、平常総攻撃、翌日占領、同17日黄海海戦で制海権を確保した。天皇は大本営を広島に進めた。10月15日同地に召集された臨時議会は一変臨時軍事費特別会計を満場一致無修正で可決した。1894年10月24日、日本軍は鴨緑江を渡河して中国領内に侵入、11月24日、旅順要塞を一日で落とした。このとき、のちの国際問題となる虐殺事件が起きた。伊藤博文首相は、大本営列席を求め、陸軍が主張した大本営大陸動座と、列強の干渉を招くこと必然の直隷平野の決戦に反対をし、清国が優勢な艦隊打破のための威海衛攻略と講和条件を有利とするための澎湖島占領を提案事項させるなど統師を抑え政戦両略の一致を図った。北京に鬼気迫った清国は1895年4月17日下関条約に調印し講和した。