これにより、11月30日に寄組山田氏の家臣であった長島義輔ら旧奇兵隊士の一部や振武隊の藤山佐熊や鋭武隊の富永有隣ら旧諸隊士1200人が脱隊騒動を起こした。

明治3年(1870年)1月13日、脱退した旧諸隊士たちは、大森県(現・島根県の石見地方と隠岐諸島)を管轄する浜田裁判所を襲撃。

1月24日には山口藩議事館(現・山口県庁舎の前身)を包囲して、交戦した旧干城隊を撃破し、付近の農民一揆も合流した結果、山口藩議事館が1800人規模で包囲され続けるという事態となった。

この脱隊騒動を解決できそうな者が山口藩内にはもはや一人もいないという状況で、木戸孝允(桂小五郎)が東京から廃藩置県遂行のために薩長土の軍を明治政府の御親兵としてあらかじめ準備して置く必要があるという目的のために帰藩した。

勢い、木戸が脱隊騒動鎮圧の指揮を毛利元徳知藩事から依頼されることとなり、山口藩は、長州藩常備兵300名に加え第四大隊250名・大阪兵学寮80名・上関と宇部の援軍100余名からなる討伐軍800名を旧諸隊士たちからなる脱退軍に対して派遣することとなった。

同年2月9日、山口藩正規軍による討伐軍は、陶垰・鎧ヶ垰を越えて小郡の柳井田関門で旧諸隊士らの脱退軍と会戦し、一時は制圧するも反撃されたため、三田尻(防府)に撤退する。

2月11日に再び柳井田関門の脱退軍を攻略し、今度は潰走させる。小郡と防府がこの戦いの激戦地とされ、そのひとつである防府の勝坂砲台に近い右田ヶ岳山麓の天徳寺では、脱隊軍が立て籠もったため、社殿が焼失するなどした。

一連の過程による人的被害は、脱隊軍の戦死60名・負傷73名、討伐軍の戦死20名・負傷64名であった。農商出身者1300名は帰郷が許され、功労者と認められた600名には扶持米1人半が支給された。3月18日の長島義輔ら25名をはじめ、5月6日までに35名が処刑された。

奇しくも奇兵隊創設者である高杉晋作の父高杉小忠太は山口藩権大参事として旧奇兵隊士を鎮圧する側で活躍した。

脱隊騒動の首謀者とみなされた大楽源太郎には3月5日に出頭命令が下る。大楽自身は包囲活動にも戦闘にも参加していないが、文明開化・国民皆兵・富国強兵路線を木戸孝允と協力して強力に推し進めたことにより脱隊騒動の原因を作ったとも言える大村益次郎が、前年9月に門弟の神代直人・団紳二郎らの襲撃で暗殺された上、多数の門弟が脱隊騒動に参加していたことから首謀者であると疑われた。

身の危険を感じた大楽は九州の豊後国姫島を経て旧知の河上彦斎を頼り鶴崎へ逃れる。河上に挙兵を促すも反対される。が、大楽は、排外主義的な鎖国攘夷の者たちを糾合しての明治政府打倒を画策する。

しかし、明治4年(1871年)3月、広沢真臣暗殺事件の捜査中に二卿事件が露見。

大楽は、尊攘志士の影響力が根強い久留米藩の応変隊を頼るが、久留米藩への飛び火を恐れた応変隊士により、3月16日、処断された。これに連座し、河上も犯人隠匿罪で逮捕され、処刑された。

処罰を逃れた旧諸隊士の一部は、豊後水道の無人島を根拠地に住み着き、海賊にまで身を落としたと言う。

立場上、規律と財政を重視せざるを得ない総裁職顧問・木戸孝允に対して、かつて干城隊頭取として北越戦争で諸隊と共闘した参議・前原一誠は、諸隊士の解雇および脱隊者の討伐に猛反対し、木戸と対立したとされる。

その結果、兵部大輔の要職を辞して下野したとされる。しかしながら、前原一誠自身も、旧干城隊や四大隊の隊員を率いて萩の乱を起こし、同様に即座に鎮圧され、斬首刑となった。

 

12、「京都の政変と長州藩の孤立化」

幕府は、文久3年7月8日(1863年8月21日)、国の方針が確定する前の外国船への砲撃は慎むよう長州藩に通告した。7月16日には中根一之允らを軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃や小倉藩領侵入について長州藩を詰問した。

ところが、長州の奇兵隊員たちは、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として「朝陽丸」の提供を要求し、8月9日には「朝陽丸」を拿捕。さらに、8月19日-20日には中根一之允らを暗殺した(朝陽丸事件)。

文久3年8月13日、三条実美ら攘夷派公卿の画策により、孝明天皇の神武天皇陵参拝と攘夷親征の詔が下る(大和行幸)。

これに呼応して大和国では天誅組が挙兵した(天誅組の変)。京都の政局は長州藩を支持する攘夷派が主導権を握っていたが、8月18日に薩摩藩と京都守護職の会津藩が結託して孝明天皇の了承のもとクーデターを起こし、攘夷派公卿は失脚、長州藩も朝廷から排除された(八月十八日の政変)。天誅組は周辺諸藩の討伐を受けて壊滅した。

長州藩をはじめとする攘夷派の京都での勢力は後退し、志士たちは潜伏を余儀なくされた。翌年の元治元年6月5日(1864年7月8日)には池田屋事件で攘夷派志士多数が殺害捕縛される。7月、孤立を深め追い詰められた長州藩は「藩主の冤罪を帝に訴える」と称して兵を京都へ派遣し、局面の一挙打開を図った。長州軍は強引に入京を試み、待ち構えた会津、桑名を主力とする幕府側と交戦して御所にまで侵入したが、御所の守りについていた薩摩藩兵が援軍として駆けつけたことにより撃退され、惨敗を招く結果となった。(禁門の変)。

このほか、文久3年12月24日(1864年2月1日)には、関門海峡を航行中の薩摩藩使用の洋式船「長崎丸」(幕府より貸与)を、長州藩の陸上砲台が砲撃し、薩摩藩士24人が死亡した。当日は視界不良で薩摩藩の船と認識しての砲撃であったかは不明であるが、長州藩の謝罪で一応は解決した。

しかしながら、翌年にも長州藩兵が薩摩藩の御用商船「加徳丸」を焼き討ちし、乗員を殺害する事件が起きている。

外交

長州藩は攘夷の姿勢を崩さず、下関海峡は通航不能となっていた。これは日本と貿易を行う諸外国にとって非常な不都合を生じていた。アジアにおいて最も有力な戦力を有するのはイギリスだが、対日貿易ではイギリスは順調に利益を上げており、海峡封鎖でもイギリス船が直接被害を受けていないこともあって、本国では多額の戦費のかかる武力行使には消極的で、下関海峡封鎖の問題については静観の構えだった。

だが、駐日公使ラザフォード・オールコックは下関海峡封鎖によって、横浜に次いで重要な長崎での貿易が麻痺状態になっていることを問題視し、さらに長州藩による攘夷が継続していることにより幕府の開国政策が後退する恐れに危機感を持っていた。