8、「長州藩の攘夷決行」

攘夷運動の中心となっていた長州藩は日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要衝である馬関海峡(下関海峡)に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取った。

「丙辰丸」(へいしんまる)は、幕末に長州藩で建造された西洋式帆船。長州藩最初の洋式軍艦として使用され、長州藩士と水戸藩士の密約締結の舞台にもなった。

黒船来航後に大船建造の禁が解除されたのを受けて、長州藩士の桂小五郎は洋式軍艦の建造を藩に上申すると共に、自ら鳳凰丸を建造した浦賀の中島三郎助を訪れ、洋式船の建造を学んだ。この意見書などにもとづき、1856年2月(安政3年1月)に長州藩は洋式軍艦の建造計画に着手した。

幕府が伊豆国の戸田村で建造した君沢形帆船の造船技術を参考とすることになり、船大工の尾崎小右衛門を戸田村及び江戸に派遣するとともに、君沢形に携わった船大工の高崎伝蔵を招聘した。尾崎は航海術についても学んだ。安政3年2月に藩主の毛利敬親から正式の建造命令が出された。

 1856年5月(安政3年4月)に帰藩した尾崎小右衛門らは、萩の小畑浦の恵美須ヶ鼻を建造地に選定。造船所の建設と船の建造を開始した。

 船は1857年1月(安政3年12月)に進水し、安政3年の干支にちなんで「丙辰丸」と命名された。干支による命名法は「壬戌丸」など以後の長州藩の洋式艦船に踏襲される方式である。

「丙辰丸」は幕府の君沢形によく似た設計であった。全長25m・排水量47トンと洋式船としては小型で、2本のマストにいずれも縦帆装を持つ二檣スクーナー(スクーネル)に分類される。材質は木造。武装としては絵図によると船首両舷に大砲1門ずつが据えられていた。

 なお、恵美須ヶ鼻造船所は1857年9月(安政4年8月)に一時閉鎖されるものの、翌年に周布政之助によって再開され、より大型の帆走軍艦「庚申丸」(1860年竣工)の建造が行われている。

「庚申丸」(こうしんまる)は、幕末に長州藩で建造された西洋式帆船。下関戦争でアメリカ海軍と交戦して撃沈されたが、復旧されて長州征討に際しても幕府軍を迎え撃った。

 早くから軍制改革に積極的だった長州藩は、1857年1月(安政3年12月)に萩の小畑浦の恵美須ヶ鼻造船所で、同藩最初の洋式軍艦「丙辰丸」を竣工させた。

しかし、同年9月(安政4年8月)に造船所は閉鎖されてしまった。

1858年(安政5年)に周布政之助が藩政の実権を握ると、安政の軍制改革の一環として再び軍艦建造が試みられることになった。

山田亦介が建造責任者に任命された。先の「丙辰丸」が君沢形帆船の建造経験者を招聘して進められたのに対し、今回は長崎へ技術者13人を派遣してオランダ人から習得した知識を基に建造が行われた。

山田亦介の指揮で再興された恵美須ヶ鼻造船所で工事は進められ、1860年5~6月頃(万延元年4月)に竣工。「丙辰丸」と同じく竣工年の干支にちなんで「庚申丸」と命名された。

「庚申丸」は、先の「丙辰丸」に比べると大型の木造帆走軍艦であった。要目は全長約43m・幅約8mと「丙辰丸」の2倍近い長さで、そのため建造費も約5倍と高額になった。ただし、要目は『赤間関海戦記事』によると全長115フィート(約35m)・幅26フィート(約7.9m)となっている[2]。マストも1本多い3本で、帆装形式は「丙辰丸」と同じ縦帆主体のスクーナーとする資料もあるが、交戦したアメリカ海軍の記録によれば横帆主体・最後尾マストのみ縦帆装のバーク型である。武装は30斤砲6門(異説によれば大砲8門)を備えた。

運用

竣工した「丙辰丸」は長州藩の軍艦として配備され、練習艦として使用された。『赤間関海戦記事』によれば艦長は山田鴻二郎。長州藩が攘夷決行に踏み切り下関戦争が始まると、松島剛蔵の指揮でアメリカ商船「ペンブローク」などを攻撃した。しかし、1863年7月16日(文久3年6月1日)アメリカ軍艦「ワイオミング」の報復攻撃を受けて、「壬戌丸」とともに砲撃で撃沈された。なお、この「ワイオミング」との交戦の際には、本艦か「癸亥丸」の砲弾1発が「ワイオミング」に命中し、アメリカ兵3人戦死・4人負傷という数少ない反撃打を加えている。

下関戦争後に本艦は復旧工事を受けて再就役した。第二次長州征討では幕府方を迎え撃つために出撃し、門司上陸戦支援の艦砲射撃を実施。その際に僚艦「乙丑丸」を指揮していた坂本龍馬の目撃記録によると、小倉藩砲台の反撃で被弾損傷している。後の戊辰戦争でも、鳥羽・伏見の戦い前に長州藩兵を輸送するなどの活動を行った。

 

壬戌丸(じんじゅつまる)は、江戸時代末期(幕末)の長州藩の軍艦。元イギリス商船のランスフィールドでもある。

1862年、英国ジャーディン・マセソン社の鉄製蒸気船「ランスフィールド」300馬力、長さ70メートル)を購入。この年の干支に因んで「壬戌丸」と名付けられた。武装として大砲4門が装備されて一応は軍艦として扱われたが、戦力は限定的で、輸送艦や藩主の御座船という性格に近かった。

購入担当を命ぜられたのは、井上馨と同僚の長嶺内蔵太と主任の山田亦介の3名。3名は、横浜の伊豆倉商店(長州藩御用達の大黒屋の営む貿易会社)に必要な洋銀の購入を一任した。洋銀を一挙に購入するとドル相場が暴騰するので、伊豆倉商店に一任すれば手数料は要らないとの事であった。

購入価格はジャーディン・マセソン商会横浜支店(英一番館)の支店長ウィリアム・ケズウィック(創業者ウィリアム・ジャーディンの姉の子)と、英国領事のジェイムス・ガワーとの交渉から12万ドルと決められた。

山田主任が船長となり、井上、長嶺、大和弥八郎、遠藤謹助、森重健蔵等は乗組士官を命ぜられた。

船の引渡しを受けたものの運転出来る者がおらず、技術に習熟するまでは外国人を必要とした。攘夷を唱えるのに外国人を雇用するのは問題であったが、妥協案として攘夷の実行までは時間があるから開戦の時期になったら解雇する事で藩政府の了解が得られた。

しかし結局、江戸幕府の海軍奉行勝安房守の塾で機関学を教授していた庄内藩士高木三郎(1841-1909)を招き指揮運転が可能になった為、外国人を解雇し、ようやく横浜から品川沖まで回航する事が出来た。