墓所は、京都市東山区の京都霊山護国神社ほか。室戸岬に銅像が立つ。この銅像は本山白雲の製作で、桂浜にある龍馬の銅像が向かう先と同じ方向を見ていると噂されているが、両者の銅像の方向には全く関係はない。桂浜の龍馬の銅像と同様にこの像も第二次世界大戦中の金属供出を免れている。

死後、海援隊士らはいろは丸沈没事故で多額の賠償金を支払わされた紀州藩の報復であると考え、紀州藩士・三浦休太郎を襲撃し、警護に当たっていた新選組と戦った。

 

5、「倒幕運動」

倒幕運動(とうばくうんどう)とは、幕府を倒すための政治的な運動・活動のことである。

主として江戸時代後期の幕末に、江戸幕府を打倒して政権打倒を目的とした幕末の政治運動を意味する。狭義では、武力で倒すことを目的とした討幕運動を指すが、広義では、軍事衝突を回避あるいは最小限度に留めた政権移譲を目指す政治工作も含めて倒幕運動と呼ぶ。

また、鎌倉幕府末期の後醍醐天皇が主導した鎌倉幕府倒幕の動き(正中の変・元弘の変)のことも「倒幕運動」と呼ばれる。

江戸時代には日本の古典研究などを行う国学が発達したが、外国船の来航も多発した。

1853年にアメリカのマシュー・ペリーやロシアのプチャーチンらが来航して通商を求め始めたことから、江戸幕府は1858年、諸外国と通商条約を締結し、開国を決定した。

しかし当時の朝廷では攘夷派の公家たちが優勢であったことから、勅許を待たずに調印した条約は無効であるとして、公家たちが幕府と井伊直弼を厳しく非難した。このことから朝廷と幕府との間の緊張が高まり、安政の大獄(同年)や井伊の暗殺(1860年)などの事件が発生した。

そこで江戸幕府は、権力の再構築を図る公武合体政策を提起し、1862年にはロンドン覚書を締結するなどして開国の延期を決定した。また外国勢力も条約締結に際して朝廷の勅許を求めたため、天皇や朝廷の権威が復活することとなった。

他方、在野の討幕派(活動家)の志士たちは、水戸学の思想的影響のもと名分論に基づき、攘夷を断行しない幕府に対する討幕論を形成し、薩摩藩の西郷隆盛(吉之助)、大久保利通、小松清廉、長州藩の桂小五郎(木戸孝允)、広沢真臣、土佐藩の武市瑞山、吉村寅太郎、また公家の岩倉具視などの討幕派らは、王政復古と鎖国の継続を構想するとして活動していた。

公武合体を推していた会津藩や薩摩藩など公武合体派(佐幕派)は、これら討幕派(尊王攘夷派)の鎮圧を図った。薩摩藩は、 天誅組の乱(1863年)、禁門の変(1864年)などにおいて討幕派を鎮圧していた。長州藩は1863年5月に下関事件を起こした後、朝敵として京都から追放された(八月十八日の政変)。

長州藩はその後も、1864年5月に国際法に違反して再び下関戦争を起こしたが、その後の6月に第一次長州征伐が行われた後は佐幕派(俗論派)が藩政を握り、討幕運動は表向きは下火となった。しかしながら、高杉晋作などの正義派は、再び佐幕派を打倒するようになった。

1865年には英国グラバー商会から薩摩藩名義で蒸気船軍艦ユニオン号を購入するなどして武力を蓄えながら、討幕の構想を維持していた。

他方、薩摩藩は1863年に薩英戦争でイギリスの優れた技術力を身をもって経験し、また幕政改革に関する方針が幕府とは異なっていたことから、1866年3月7日、密かに長州藩と薩長同盟を結んだ。

ただ、その2日後の3月9日には佐幕派として土佐藩の討幕派である坂本龍馬などを粛清している(寺田屋事件)。

そして長州藩は、1866年6月には幕府の第二次長州征伐の征討軍を撃退し、その権威を低下させることに成功した。

1867年(慶応3年)1月には孝明天皇が35歳で崩御し、14歳の明治天皇が皇位に就くこととなった。

その後の5月から行われた四侯会議は不成功に終わり、朝廷は11月9日、薩摩藩と長州藩に討幕の密勅を下した。

そこで薩摩藩は公家の岩倉具視などと協力し、朝廷における徳川幕府の影響力の排除や、長州藩の復権に務めることとなった。

15代将軍である徳川慶喜はこれら討幕派の動きに対し、討幕の密勅と同日の11月9日(慶応3年10月14日)、大政奉還を行った。

大久保利通ら討幕派は当初、ロンドン覚書の開市開国の期日に基づき、1868年1月2日に王政復古を行う予定であったが、土佐藩の後藤象二郎の要請により延期して、1月3日に王政復古の大号令を発令した(明治政府)、江戸幕府が消滅したため、討幕運動は名目上は終わったかのように見えた。

しかし江戸幕府を支える勢力は残っており、1月26日は、京都で発生した鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、戊辰戦争が始まった。

新政権の議定であった松平春嶽は、この戦いは薩摩藩と佐幕派との私闘であるとして政府の関与に反対したが、議定となったばかりの岩倉具視は佐幕派の征討に賛成し、征討軍に錦の御旗を与えたことで、佐幕派の勢力は朝敵と見なされることとなった。

5月3日には江戸幕府の本拠地であった江戸城は無血で江戸開城し、大阪城から江戸に戻った慶喜は明治政府に恭順し、このことから江戸城は明治政府に接収され、徳川氏による政治機構は消滅した。

ただし、佐幕派はその後も東北諸藩と共に甲州や東北地方、北海道にも及ぶ地域で、朝敵とされながらも抗戦を続け、戊辰戦争はその後も続くこととなった。

薩長同盟(さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟である。薩長盟約薩長連合ともいう。

薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として大きな影響力を持ったが、薩摩藩が、公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論 を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相容れない立場にあった

。薩摩藩は、文久3年(1863年)8月18日に会津藩と協力し長州藩勢力を京都政界から追放し(八月十八日の政変)、翌元治元年(1864年)7月19日には上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え敗走させる(禁門の変)に至り、両者の敵対関係は決定的となった。