一般には大瀬戸の下関と北九州市門司区の間を関門海峡と呼ぶ。なお、海運業界では下関市彦島の周囲を迂回する形で門司区 - 小倉北区 - 戸畑区 - 若松区に抜けるルートが関門航路=関門海峡との認識である。

2017年、山口県下関市と福岡県北九州市にまたがる42件が「『関門“ノスタルジック”海峡』〜時の停車場、近代化の記憶〜」として日本遺産に認定された。

前段: 文久3年(1863年)5月、長州藩が馬関海峡を封鎖し、航行中のアメリカ・フランス・オランダ艦船に対して無通告で砲撃を加えた。約半月後の6月、報復としてアメリカ・フランス軍艦が馬関海峡内に停泊中の長州軍艦を砲撃し、長州海軍に壊滅的打撃を与えた。

しかし、長州は砲台を修復した上、対岸の小倉藩領の一部をも占領して新たな砲台を築き、海峡封鎖を続行した。

後段: 元治元年(1864年)7月、前年からの海峡封鎖で多大な経済的損失を受けていたイギリスは長州に対して懲戒的報復措置をとることを決定。

フランス・オランダ・アメリカの三国に参加を呼びかけ、都合艦船17隻で連合艦隊を編成した。同艦隊は、8月5日から8月7日にかけて馬関(現下関市中心部)と彦島の砲台を徹底的に砲撃、各国の陸戦隊がこれらを占拠・破壊した。

 

戦後、長州藩は幕命に従ったのみと主張したため、アメリカ・イギリス・フランス・オランダに対する損害賠償責任は徳川幕府のみが負うこととなった。

馬関海峡の砲台を四国連合艦隊によって無力化されてしまった長州藩は、以後列強に対する武力での攘夷を放棄し、海外から新知識や技術を積極的に導入し、軍備軍制を近代化する。

さらに坂本龍馬や中岡慎太郎などの仲介により、慶応2年1月21日(1866年3月7日)に同様な近代化路線を進めていた薩摩藩と薩長同盟を締結して、共に倒幕への道を進むことになる。

 

3、「坂本龍馬・勝海舟と神戸海軍操練所」

龍馬は文久2年(1862年)8月に江戸に到着して小千葉道場に寄宿した。

この期間、龍馬は土佐藩の同志や長州の久坂玄瑞・高杉晋作らと交流している。 

12月5日、龍馬は間崎哲馬・近藤長次郎とともに幕府政事総裁職にあった前福井藩主・松平春嶽に拝謁した。 12月9日、春嶽から幕府軍艦奉行並・勝海舟への紹介状を受けた龍馬と門田為之助・近藤長次郎は海舟の屋敷を訪問して門人となった。

龍馬と千葉重太郎が開国論者の海舟を斬るために訪れたが、逆に世界情勢と海軍の必要性を説かれた龍馬が大いに感服し、己の固陋を恥じてその場で海舟の弟子になったという話が広く知られており、この話は海舟本人が明治23年に『追賛一話』で語ったものが出典である。

 だが、春嶽から正式な紹介状を受けての訪問であること、また海舟の日記に記載されている12月29日の千葉重太郎の訪問時にはすでに龍馬は弟子であった可能性があることから、近年では前述の龍馬と海舟との劇的な出会いの話は海舟の誇張、または記憶違いであるとする見方が強い。

いずれにせよ、龍馬が海舟に心服していたことは姉・乙女への手紙で海舟を「日本第一の人物」と称賛していることによく現れている。

勝海舟は山内容堂に取りなして、文久3年(1863年)2月25日に龍馬の脱藩の罪は赦免され、さらに土佐藩士が海舟の私塾に入門することを追認した。

龍馬は海舟が進めていた海軍操練所設立のために奔走し、土佐藩出身者の千屋寅之助・新宮馬之助・望月亀弥太・近藤長次郎・沢村惣之丞・高松太郎・安岡金馬らが海舟の門人に加わっている。

また、龍馬が土佐勤王党の岡田以蔵を海舟の京都での護衛役にし、海舟が路上で3人の浪士に襲われた際に以蔵がこれを一刀のもとに斬り捨てた事件はこのころのことである。

幕府要人と各藩藩主に海軍設立の必要性を説得するため、海舟は彼らを軍艦に便乗させて実地で経験させた。

4月23日、14代将軍・徳川家茂が軍艦「順動丸」に乗艦のあと、「神戸海軍操練所」設立の許可を受け同時に海舟の私塾(神戸海軍塾)開設も認められた。

幕府から年三千両の経費の支給も承諾されたが、この程度の資金では海軍操練所の運営は賄えず、そのため5月に龍馬は福井藩に出向して松平春嶽から千両を借入れした。 

5月17日付の姉・乙女への手紙で「この頃は軍学者勝麟太郎大先生の門人になり、ことの外かわいがられ候・・・すこしエヘンに顔をし、ひそかにおり申し候。エヘン、エヘン」と近況を知らせている。

龍馬が神戸海軍操練所設立のために方々を奔走していた最中の同年4月、土佐藩の情勢が変わり、下士階層の武市半平太が藩論を主導していることに不満を持っていた山内容堂は再度実権を取り戻すべく、吉田東洋暗殺の下手人の探索を命じ、土佐勤王党の粛清に乗り出した。6月に勤王党の間崎哲馬・平井収二郎・弘瀬健太が切腹させられた。

平井の妹・加尾は龍馬の恋人とされる女性で、龍馬は6月29日付の手紙で姉・乙女へ「平井収二郎のことは誠にむごい、妹の加尾の嘆きはいかばかりか」と書き送っている。

また、同じ手紙で攘夷を決行し米仏軍艦と交戦して苦杯を喫した長州藩の情勢と(下関戦争)、その際、幕府が姦吏の異人と内通し外国艦船の修理をしていることについて強い危機感を抱き「右申所の姦吏を一事に軍いたし打ち殺、日本を今一度洗濯いたし申し候」と述べている。

8月18日、倒幕勢力最有力であった長州藩の京都における勢力を一網打尽にすべく、薩摩藩と会津藩が手を組み「八月十八日の政変」が起きた。これにより京都の政情は一変し、佐幕派がふたたび実権を握った。8月に天誅組が大和国で挙兵したが、翌9月に壊滅して吉村虎太郎・那須信吾ら多くの土佐脱藩志士が討ち死にしている(天誅組の変)。

土佐では9月に武市半平太が投獄され、土佐勤王党は壊滅状態に陥っていた(武市は1年半の入牢後の慶応元年閏5月に切腹となっている)。