翌23日には福島正則以下各隊が秀信の居城岐阜城を攻め秀信を降服させ、救援に駆け付けた三成・島津勢も撃退。

8月24日、徳川秀忠は信州上田攻略のため宇都宮を立つ。岐阜城と同じ西軍側の犬山城に対して、井伊直政が同日付の書状で、城主石川貞清とともに籠城している竹中重門らに城の明け渡しを勧告。

8月26日より秀家・行長・三成・義弘・秀頼の馬廻衆ら2万人が守る大垣城に対して、東軍8万人による包囲が開始され、城方は毛利勢に救援を要請する。

8月27日、岐阜落城の知らせを受けた家康は岐阜攻めに参加した諸大名に戦功を賞する書状を出し、福島正則には自分と秀忠勢が到着するまで軍事行動を控えるよう指示する。

一方、伊勢に侵入し、安濃津・松坂の両城を降伏させた西軍は尾張へ向かう。

決戦と抗争終結

9月1日、家康が江戸を出立。同日付書状で、この頃垂井に集結していた福島・池田らの東軍主力諸将に、自分の到着まで自制するよう再度指示を出し、掘直寄には大垣城を水攻めで落とすつもりであることを伝えている。

9月2日、大谷吉継、戸田重政、平塚為広、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治が北国口を抑える為に関ヶ原南西の山中村に布陣。

9月3日、犬山城が開城。

同日細川幽斎が籠城する丹後田辺城に向け、和平の使者として日野輝資中院通勝・富小路秀直が出立。

この頃より城主京極高次の寝返りにより東軍の城となった大津城に対する西軍の攻囲が始まる。

9月5日一度は徳川秀忠に降伏を申し出た真田昌幸が一転して抗戦を表明。砥石城を放棄して上田城に撤退。

9月7日、に毛利秀元、吉川広家が南宮山に着陣。

9月14日、小早川秀秋が関ヶ原の南西にある松尾山城に伊藤盛正を追い出して入城。続いて9月14日夜大谷義継が関ヶ原に着陣する。

一方、家康は9月9日に岡崎、10日熱田、13日岐阜と軍勢を進め、14日には赤坂に着陣。

享保12年(1727年)成立の『落穂集』には島津義弘が、赤坂の家康本陣への夜襲を提案するも、島左近が反対し、三成がそれに従った結果作戦が採用されなかったとする逸話が載せられている。ただし、この夜襲策について記された一次史料は確認されない。

夜襲策の真偽については「#島津義弘の夜襲策について」参照。

9月12日、田辺城に籠城していた細川幽斎が勅命を受け入れて退城。

9月13日前後に東西両軍間で和睦が成立して大津城が開城し9月15日に毛利元康が大津城に入る。同日関ヶ原にて東西主力の戦闘が行われ東軍勝利。同日家康は佐和山にまで軍を進める。

9月17日、毛利元康が大津城を退去し、同日佐和山城落城。同日に大垣城内にいた相良長毎・秋月種実・高橋元種は熊谷直盛・垣見一直・木村由信父子の三名を殺害し、その首を持参して投降。城に残った福原長堯はその後20日過ぎまで抵抗を続ける。

この頃より輝元と家康との間で黒田長政・福島正則を介した交渉が始まり、現毛利領が安堵される条件で和睦が成立 (但し10月になってこの約束は反故にされ、周防・長門2ヶ国に減封される)。

9月25日、家康と秀忠は福島正則・黒田長政ら5名の大坂入城を確認し、輝元は退去。

続いて9月27日には家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と「和睦」。

10月1日、恵瓊・行長・三成の3名が京六条河原にて斬首された[132]

9月15日の布陣と戦闘経過

関ヶ原の戦い当日の布陣や戦闘経過についての記録のほとんどは、合戦後に幕府や参戦大名によって作成された編纂物、または軍記物といった二次史料であり、信憑性の高い一次史料による記録は僅かである。

二次史料同士の記述は、同じ戦闘を扱っているにも関わらず内容に食い違いが生じていることも少なくなく、『関ヶ原合戦史料集』の著者藤井治左衛門はそれら史料群について「当日の戦況を書いた軍記物は、数多くあるが、いずれも全部正しいと思われるものは殆どない。」と評している。

九州

九州では主に領国に所在した黒田如水と加藤清正が西軍大名領に攻め込む形で戦いが発生した。

黒田如水

7月に石田三成が挙兵すると孝高は徳川家康につき九州で挙兵する意思を示し、これが家康に認められると9月9日に中津城より豊前・豊後に出陣した。

孝高の最初の目標は豊後国東の垣見一直富来城熊谷直盛安岐城であり、両領主は美濃の大垣城に所在しており、留守を家臣が守っていた。両城の攻撃は大友義統による豊後上陸と杵築城(木付城)攻撃に対応と石垣原の戦いにより一時中断されるが、9月17日よりから再開され、24日には両城とも開城・接収された。毛利高政領の本城日隈城及び支城の角牟礼城も19日以降に開城・接収されている。

侵攻中の19日に孝高が藤堂高虎宛てに送った書状では、如水と加藤清正が自力で切り取った西軍領を拝領できるよう家康に取り成して欲しいと依頼している。佐賀の鍋島直茂は息子の勝茂が西軍についたが在国の直茂は9月下旬に孝高・清正につき領国を保った。

小早川秀秋領の名島城は領主留守中に黒田軍が秋月まで侵攻したが、留守居役と交渉して久留米攻めに合意して東軍となり小早川領を維持した。

毛利秀包領の久留米城は領主留守中に黒田・鍋島軍の攻撃を受け、10月14日に孝高により開城・接収された。

中川秀成は配下の宗像・田原氏が離脱して石垣原の戦いに参加したため西軍と疑われたが黒田軍について佐賀関の戦いで被害を出したものの太田一吉領の臼杵城を10月頃に開城させて東軍であることを証明した。

城は最終的に黒田孝高が接収した。