9「島津氏の豊臣政権下」

秀吉は島津家の領地としてまず義久に薩摩一国を安堵し、義弘に新恩として大隅一国、義弘の子・久保(義久には男児が無かったため、甥の久保に三女・亀寿を娶わせ後継者と定めていた)に日向国諸縣郡を宛行った。

またこの際、伊集院忠棟には秀吉から直々に大隅のうちから肝付一郡が宛行われている。島津家家臣の反発は強く、伊東祐兵高橋元種といった新領主は、島津家の家臣が立ち退かないと豊臣秀長に訴え出ている。

天正16年(1588年)、秀吉から義弘に、羽柴の名字と豊臣の本姓が与えられた。また、天正18年(1590年)、義久に羽柴の名字のみ与えられた[3]。豊臣政権との折衝には義弘が主に当たることになる。

しかし島津家は刀狩令にもなかなか応じず、京都に滞在させる軍兵も十分に集まらなかった。この頃京都では、島津家には義久と家臣が豊臣政権に従順ではないという噂が立ち、石田三成の家臣が義弘に内報している。また秀吉政権に重用された伊集院忠棟らに対する家中の反感も高まりつつあった。

秀吉は朝鮮出兵を実行し、諸大名に対して出兵を命じた。しかし、島津家は秀吉の決めた軍役を十分に達成することができなかった上、重臣の一人梅北国兼名護屋に向かう途中の肥後国で反乱を起こした(梅北一揆)。

梅北一揆(うめきたいっき)は、文禄元年(1592年)6月に島津氏の家臣で大隅国菱刈郡湯之尾地頭の梅北国兼が起こした一揆である。

豊臣秀吉による1回目の朝鮮出兵(文禄の役)の際、前線基地である肥前名護屋城へ向かう船を待つ名目で肥後国葦北郡佐敷に留まっていた梅北国兼は、文禄元年6月15日1592年7月23日)、葦北を治める肥後熊本城加藤清正の朝鮮出征中の隙を突く形で佐敷城を占拠する。

動機は、朝鮮出兵への反発とも、秀吉の支配に対する反発ともいわれる。

この一揆には田尻但馬東郷甚右衛門といった島津家臣が参加し、それぞれの手勢に農民や町人が加わった反乱軍の人数は七百人であったとも二千人であったともいわれる。

これまで、国兼は佐敷城の留守を預かっていた安田弥右衛門らの偽りの投降に油断し、6月17日境善左衛門によって斬殺され、一揆はわずか3日で鎮圧されたとされていた。しかし、最近になって一揆勢は佐敷城を15日にわたって占拠していたという説も浮上している。

いずれにしても一揆勢は佐敷の北の八代城現在の麦島城跡)を攻めたが失敗に終わり、加藤氏や肥後人吉城相良氏の軍勢によって鎮圧され、国兼は死亡した。国兼の首は名護屋城に届けられて浜辺に晒され、胴体は佐敷五本松に埋められたという。

この梅北一揆はもともと遅れ気味であった島津氏の文禄の役参陣をさらに遅らせてしまう結果となり、島津義弘をもってして「日本一の遅陣」と言わしめるほどの失態につながった。

この遅陣は島津氏に対する豊臣政権の不信を招き、島津領内では豊臣政権の遣わした浅野長政細川幽斎らによる徹底した検地が行われることになる。

さらに島津歳久が秀吉によって一揆の黒幕とみなされ、島津義久の追討を受けて死亡したほか、一揆に家臣が参加したという理由で肥後の阿蘇惟光がわずか12歳で斬首された。

梅北一揆によって島津氏の政治的な立場は極度に悪化したが、検地やそれに伴う国人領主層の没落は結果として島津氏の大名権力強化につながり、慶長の役で軍功をあげ名誉を挽回する契機となった。

また事件後の処罰が苛烈だったことから、この後の豊後大友氏の改易事件などとともに、豊臣政権になじまなかった九州の諸勢力を政権体制下に組みふせる効果があったとされる。

一方、国兼は旧領において神となり、現在も鹿児島県姶良市北山に国兼を祀る梅北神社が残っている。

これらを島津氏の不服従姿勢と見て取った秀吉は不服従者の代表として歳久の首を要求し、義久は歳久に自害を命じた。また文禄2年(1593年)、朝鮮で久保が病死したため、久保の弟・忠恒に亀寿を再嫁させて後継者としている。

文禄3年(1594年)、義弘は石田三成に検地実施を要請する。検地の結果、島津氏の石高は倍増したが、義久の直轄地は大隅国や日向国に置かれ、義弘に鹿児島周辺の主要地が宛行われることとなった。

これは秀吉政権が義弘を事実上の島津家当主として扱ったためとされ、領地安堵の朱印状も義弘宛に出されている。

当主の座を追われた義久は大隅濱の市にある富隈城に移ったが、島津家伝来の「御重物」は義久が引き続き保持しており、島津領内での実権は依然として義久が握っていた。これを「両殿体制」という。

秀吉の死後、朝鮮の役が終わると、泗川の戦い等の軍功を評価され、島津家は5万石の加増を受けた。

泗川の戦い(しせんのたたかい)は、文禄・慶長の役における合戦の一つ。日本の慶長3年/万暦26年9月(1598年10月)、朝鮮半島泗川島津義弘率いる島津軍7千が明の武将董一元率いる数万(後述)の明・朝鮮連合軍と戦って撃退した戦いである。絶望的な戦力差があったにもかかわらず、劣勢な島津軍が勝利した伝説的な戦いとして知られているが、明軍の数および死者数については資料ごとにかなりの差がある。

慶長3年/万暦26年(1598年)9月末から10月初めにかけて、明と朝鮮の連合軍は西から順天倭城小西軍)、泗川倭城(島津軍)、蔚山倭城加藤軍)、に対して同時攻勢をかけた。

このうち明将董一元率いる明・朝鮮連合軍が泗川倭城に攻め寄せた。泗川は日本軍の策源地であった釜山と日本軍最左翼の順天倭城・南海倭城の中間に位置するため、ここを落とされると西方にいる軍との連絡が分断される可能性があった。この泗川に駐屯していたのは、島津義弘と島津忠恒率いる島津軍7千のみであった。

軍や立花軍が援軍を申し入れるが義弘はそれを断り、島津家の軍勢だけで明・朝鮮の大軍を迎え撃つこととなった。