元亀3年(1572年)、少弐政興を肥前から追放する。天正元年(1573年)には西肥前を平定し、天正3年(1575年)には東肥前を平定する。天正4年(1576年)には南肥前に侵攻し、天正5年(1577年)までに大村純忠を降し、天正6年(1578年)には有馬鎮純の松岡城を降して肥前の統一を完成した。

天正8年(1580年)4月に家督を嫡男・政家に譲って、自らは須古城へ隠居する。しかしなおも政治・軍事の実権は握り続けた。

勢力拡大

天正6年(1578年)、大友宗麟が耳川の戦い島津義久に大敗すると、隆信は大友氏の混乱に乗じて大友氏の領国を席捲し、大友氏からの完全な自立を果たし、それまで対等な関係であった国衆を服属化させ戦国大名化した。

天正8年(1580年)までに筑前国筑後国肥後国、豊前などを勢力下に置くことに成功している。しかし天正8年(1580年)、島津と通謀した筑後の蒲池鎮漣を謀殺し、次いで柳川の鎮漣の一族を皆殺しにし、また天正11年(1583年)に赤星統家が隆信の命に背いた際、人質として預かっていた赤星の幼い息子と娘を殺したため、隆信は麾下の諸将の一部からも冷酷な印象で見られるようになる。

天正9年(1581年)、龍造寺軍は龍造寺政家を主将として肥後へ侵攻、4月までに山鹿郡小代親伝菊池郡隈部親永大津山資冬戸原親運益城郡甲斐宗運合志郡合志親為飽田郡城親賢、隈府の赤星統家、球磨郡相良義陽が参陣した。

また先陣の鍋島信昌は、隈府の赤星親隆山本郡古閑鎮房を下し、肥後計略は完了、龍造寺軍は帰陣した。

同年8月、島津忠平(義弘)が北上し相良氏水俣城を攻めたため、相良氏、阿蘇氏甲斐氏らは南関に陣する龍造寺家晴に救援を求めた。家晴は直ちに援兵を差し向けたので、島津忠平は八代に退いた。

天正11年(1583年)、家晴は筑前、肥前、筑後並びに肥後の味方の兵を自ら率い(『北肥戦誌』では37,000余)、島津は伊集院新納樺山喜入等の手勢を集め、高瀬川(現・菊池川)を挟んで対峙したが、秋月種実の仲裁により、高瀬川より(東南)を島津領、(北西)を龍造寺領と定めて、天正12年(1584年)に両者和睦に至った。これを聞いた隆信は、島津と一戦もせずに講和したことを憤ったという。もっとも、島津氏の家老・上井覚兼の『上井覚兼日記』天正11年9月27日の項には、秋月種実の使者が隈本(熊本)に参じて、龍造寺との和平及び、共に大友を討つことを島津方に周旋した上で、隆信および種実は島津義久を九州の守護と仰ぎ奉ると述べたとし島津側に立った記述がなされている。

最期

天正12年(1584年)3月、有馬晴信が龍造寺氏から離反する。晴信の縁戚である同地深江城主・安富純冶純泰父子は依然龍造寺方であったが、有馬晴信は深江城を攻め島津がこれに加勢したため、隆信は深江城を救援し有馬を討つべく軍勢を差し向けた。

しかし、有馬攻めは遅々として進まず、これに業を煮やした隆信は、自ら大軍を率いて島津・有馬連合軍との決戦を決意する。

龍造寺軍は2万5千の大軍であり、島津軍は僅か1万未満と圧倒的な兵力差であったが、龍造寺軍は大軍の進行が不可能な隘路に誘い込まれ、島津義久の弟・島津家久軍と有馬勢から挟撃されて、敗北を喫した。

龍造寺方は多くの将兵を失ったのみならず、大将の隆信が島津氏の家臣・川上忠堅に討ち取られてしまった。享年56。法名は泰巌宗龍、法雲院と号した。重臣の鍋島直茂は隆信の訃報に接し自害しようとしたが、家臣に押しとどめられ、柳河へと撤退した。

島津軍に討ち取られた隆信の首級は、島津家久によって首実検された後、龍造寺家が首級の受け取りを拒否したため、願行寺玉名市)に葬られたと言われる。現在、隆信の公式の墓所は鍋島氏と同じ佐賀県高伝寺にあるが、戦いで討ち取られた首の行方には諸説あり(人物・逸話も参照)、「隆信の塚」と称する物が長崎県や佐賀県内に散在している。

逸話

今山の戦いで奇襲か籠城かで評定の意見が分かれた際に、母親の慶誾尼から奇襲をするように指摘されたので、奇襲を決めたとも言われる(『直茂公請考補』)。

若い頃から何度も肥前を追われた経緯からか、疑心暗鬼にかられやすい冷酷な人物であったと言われている。

そのために「肥前の熊」という渾名をつけられた。

一方で、そうした冷酷非情さや狡猾さがあればこそ、肥前の一国人にすぎなかった龍造寺氏が、隆信一代で九州三強の一角にまでのし上がったのではないかという意見もある。

筑後の蒲池鎮漣(鎮並)は、当初は隆信の筑後侵攻に協力した。鎮漣の父の鑑盛に助けられた恩から、後に隆信は娘の玉鶴姫を鎮漣の妻とする。隆信にとって、鎮漣は筑後における強力な与力でもあった。

しかし、肥後北部の辺原親運を攻めた際に、鎮漣がときどき陣を抜け出して柳川へ通っていたことがわかり、これが佐賀勢の印象を悪くし、隆信との関係も悪化した。攻城戦の最中に陣を抜けるのは重大な現場放棄である。

隆信は、天正8年(1580年)に2万の兵で柳川城を攻めている。しかし九州屈指の難攻不落の城はなかなか落ちず、また城方も城兵の疲弊が著しかったため、鎮漣の伯父であり、隆信側に立っていた田尻鑑種の仲介で和睦する。

しかしその後、蒲池連並が島津氏と通謀していることが明らかになったため、天正9年(1581年)、隆信は鍋島直茂、田尻鑑種などと謀り、和解の猿楽の宴と称して鎮漣を肥前に誘き寄せて騙し討ちにし、残った柳川の蒲池氏一族も皆殺しにした(柳川の戦い)。